英語の外部テスト(TOEFL、TOEIC等)を卒業要件・英語履修免除要件とすることの「虚妄」について(2004年10月6日)

「手から手へ」第2302号




英語の外部テスト(TOEFL、TOEIC等)を卒業要件・英語履修免除要件とすることの「虚妄」について

「手から手へ」第2302号
(文系事務支部・人文学部・英文  長谷川 宏)

新大学の学生に対して、TOEFL、TOEICなどの外部テストにおけるある一定の得点 を「卒業要件」として設定し、それ以上の点を取れば英語の授業を免除する、と いう可能性が現在検討されています。このような議論は、「英語力」というもの に関して世間に蔓延する幾重にも積み重なった誤解の上に成り立つ「虚妄」であ り、緊急に考え方を改めるべきであると思われるので以下にその根拠を述べたい と思います。(「英語のネイティブスピーカーによる会話学校の外部委託授業」 が、「効率のよくない」従来の英語教育に代わる「特効薬」、というのも同種の 「虚妄」と考えられますが、こちらは少々問題が複雑過ぎて筆者の手に余るため 本稿では取り上げません。)

1)ある一定の英語力をつけたらもう勉強する必要はないのか?
新大学では外部テストで一定以上のスコアを取っていれば英語の履修を免除する という案が検討され、たとえばTOEFLのPBT(paper-based test;現在はCBTすな わちcomputer-based testが主に実施されており、得点は数字でPBTの半分弱にな る)で550点というような点数が取り沙汰されています。
 私が大学院生時代に受けたTOEFLの得点は660点でした。学部入学の時点での英 語力も、全国規模の模擬試験の英語で1位を取ったり、学部2年で英検1級を取っ たりしていたことから考えて、首都大において想定される「卒業・免除要件」を 大幅にクリアしていたことはおそらく確かでしょう。それでは私はもう大学で英 語の勉強をする必要などなかったでしょうか?
 答えはきわめて明確なNOです。今から当時の私をふりかえっても、当然知っ ていてもいいのにまだ知らなかったこと、勉強不足な部分はいくらでもありまし た。もしそこで「もう十分」と英語の勉強を止めていたら、私の英語力はい今よ りだいぶ低いレベルにとどまるどころか、むしろそこから低下していたでしょう。  「英語力をつける」ということは、「自転車に乗れるようになる」ということ とは違います。ある段階に到達しても、必ずその先があり、「もうこれで十分」 などと勘違いして勉強を止めてしまったら、より高いレベルに到達する潜在能力 があってもそれを発揮しそこねることになるばかりか、せっかく到達したレベル から後退してしまうことになるでしょう。これは「英語力」に限らないことです が、ある一定のレベルを維持するだけでも努力が必要で、少しでも上のレベルを 目指すのであればより一層の努力を要し、「もうこれで『上がり』」などといい う段階は存在しません。TOEFLのスコアレポートの裏に「英語力は比較的短期間 でかなり変動するので、2年以上前のスコアの記録報告はできません」という但 し書きがあるのを皆様はご存知でしょうか?せっかくある程度のレベルに達した 学生が入学してきたなら、きちんと教育してそのレベルを維持・向上させること をこそ考えるべきです。

2)「これでもう十分」という英語力は得点にしてどのくらいか?(そもそもそ んなものが存在するのか?)
 私は最近世間でもてはやされているTOEICという試験はどんなものかと思い一 昨年受験してみました。その結果色々なことがわかりました。たとえばTOEICと TOEFLその他の試験との間には(TOEICが象徴する「ビジネス英語」と、俗に言う 「学校英語」、「受験英語」等との間にも)世間で言うほど本質的な差はないこ と、「ビジネス英語」とか騒いでいるが、基本的な英語力をしっかりつけていれ ばその大部分には対応できることなどです。しかし、「総スコア965点(リスニ ングは495点で満点)、7万余名の受験者中成績上位0.2%以内」という試験結果 を見て一番強く思ったことは、(TOEIC等の得点が英語力の十全な指標であるか という問題はいったん脇に置くとして)「何だ、『まだまだ』の私程度の英語力 で『上位0.2%以内』だったら、日本人の圧倒的大多数の英語力は『まだまだ』以 下だということだな」ということでした。これは別に「謙遜を装った自慢」では ありません。「上位0.2%以内」と判定された私でも、ごく一般的な新聞や雑誌の 記事を読んでも、TVドラマや映画を見ても、わからないことはいくらでもあり ます。TOEICでは直接は測れない話す力、書く力も、私はおそらく日本人として は相当なレベルに達している、ということになるのでしょうが、それほど高度な 内容でなくても、とっさに的確な表現が出てこなくてもどかしい思いをすること はいくらでもあります。とすれば残りの99.8%の日本人が、なかなか思うように 英語を使いこなせないことは想像に難くありません。
 このことは何を意味しているのでしょうか。それこそ「日本人の圧倒的大多数」 は、これが「今までの日本における英語教育の失敗」を意味すると勘違いし、空 疎な「英語教育改革」に走り出しています。(断っておくと、従来の日本の英語 教育に「改革」の余地が一切ない、などと主張するつもりはありません。ただ現 在実際に行われている英語教育「改革」の多くが誤解に基づく頓珍漢なものであ ることは深刻な問題として繰り返し指摘し続けていかなければなりませんが。)
 これは実は、日本人が日本にあって英語力をつけるといいうことがいかに大変 なことでそう簡単にはいかないか、という本質的な事実を示しているのであって、 小手先の「改革」を行えば劇的に事態が変わるようなものではないのです。英語 圏に生まれた子供が自然に英語を習得する(第一言語習得)のと、日本語を母語 とする日本人が英語を習得する(第二言語習得)のとはまったく別のプロセスで あって、後者は前者とはまったく異質な、多大な労力を要するものである、とい う基本的事実は、言語習得に関する浅薄な誤解が蔓延し、その誤解が強大な影響 力を持って語学教育を「破壊」しつつある今の日本では、どんなに強調しても強 調し過ぎることはないでしょう。しかも英語と日本語は言語学的に見ても隔たり が非常に大きい分、日本人の英語習得はドイツ人の英語習得よりもはるかに大き な労力を要するのです。
 首都大の「卒業要件」として設定されようとしているTOEFL550点程度の英語力 では、仕事などで本当に「使いものになる」レベルにはまだまだ遠いと言わねば なりません。(しつこく自慢しているように聞こえてしまいそうですが) TOEFL660点、TOEIC965点で日本人の「上位0.2%以内」の私がまだまだ知らないこ と、わからないことだらけ、日々これ勉強なのです。真に「実用」になる英語力 というのは、(「ハンバーガー屋で注文ができる程度」という浅薄なレベルでい いなら話は別ですが)そう簡単に獲得できるものではなく、ひとたび獲得したと してもそれを維持するためには不断の努力が必要なのです。

3)すべての学生に対して適切な一律の英語力の基準は存在するか?
 このような誤った発想が出てくる背景には、言語習得に関する世間のさまざま な誤解があります。そのひとつは、「人間がことばができるようになるのは、人 間が歩けるようになるのと同じで、一定の環境・教育等さえ与えられれば(特に 障害等がない限り)誰でも同様にできるようになるはずだ」という思い込みです。
 これは先に述べた「第一言語習得(=母語の習得)」に関してはある程度は正 しいかも知れません。(本当はこれも問い直す必要があります。私たち日本人の もつ「日本語力」は全員同等でしょうか?そして「外国語力」は、その人のもつ 「母国語力」に大きく影響され、「外国語力」が「母国語力」を上回ることはあ り得ません。)しかし「第二言語習得(母語以外の言語の習得)」には、その人 の素質、やる気などが大きく関わってきます。同じ条件下で同じ教育を施しさえ すれば全員が等しくできるようになるなどというのが幻想であるのは、数学や物 理の教育(あるいはサッカーやピアノやバレエのトレーニング)においてそれが 成り立たないのとまったく同じです。
 個々の学生の素質、現在の到達度などを無視して、学生全員に一定のスコアを 要求するのは、誰彼かまわずやみくもに「マラソンを4時間以内で走れ」と要求 するのに似ています。たとえば私にとってそれはおそらくきわめて困難な目標で すし、高橋尚子さんにとっては無意味な目標でしょう。そしてマラソンのタイム がまだ3時間を切っていなかった段階の高橋さんが、「マラソンなんて4時間以 内で走れさえすればいいんだから君はもうマラソンなんかやらなくていい」とも し言われていたら、まだ開花していなかった彼女の才能はいったいどうなってい たか、想像してみてください。
 もしどうしても外部テストの得点を英語力の指標として導入したいなら、全員 一律の到達目標をやみくもに課す、などというばかげたやり方ではなく、「スコ アを現在よりOO点アップする」というような、個々の学生の資質・能力に応じ た目標を設定すべきです。

4)「十分な英語力」をつけた経験がない人間に、英語教育「改革」をうんぬん する資格はあるか?
 現在都の大学に対して都当局から、英語授業の会話学校への「外部委託」など、 根本的な部分で英語教員の意見には(「建設的な」意見以外は?)ほとんど耳を 傾けないまま英語教育「改革」の基本方針が示され、その「肉付け」だけが要求 されています。そもそも根本的な問題は、「十分な英語力」をつけた経験のない 人間が、英語教育に関する基本制度設計をすることは可能か、というところにあ ります。たとえばマラソンを走ったこともない私が、マラソンランナーのトレー ニングの基本構想を考えることができるでしょうか?日本の英語教育「改革」が 失敗しつつある最大の理由のひとつは、「自分は十分な英語力をつけられなかっ たが、それはきっと制度・教育が悪かったからに違いない」という「虚妄のトラ ウマ」に駆られた人たちが、わけもわからず従来の英語教育をバッシングし、出 まかせで制度をいたずらにいじくりまわしているからです。たとえば日本の物理 教育をどうすべきかを、物理を何もわかっていない私がうんぬんして、いったい 誰が耳を傾けるでしょうか?物理に関してある程度以上の造詣をもつ、たとえば 小柴先生のような方の意見であってはじめて(無条件にではありませんが)傾聴 に値する可能性があるのであって、なぜ「英語教育」の話になると急に「素人の 思いつき」が幅を利かせてしまうのか、不思議でなりません。「人にやり方を説 くからには、自分も実際にやってある程度以上のレベルに到達した経験がある」 というのは、英語以外の学問でもスポーツでも芸術でも最低限の条件ではないで しょうか。「『プロ』の言うことなら無条件に正しい」などということはもちろ んありませんが、「自分ができなかったことを、『こうやればできたかも知れな い』と思いつきで考え、人に押し付ける」などというばかげたことが通用してい るようでは、英語教育「改革」が成功する見込みは到底ないでしょう。そしてそ の「ばかげた思いつき」の被害を受けるのは何の罪もない学生たちであるという ことを、私たちはもう一度真剣に考えるべきです。