学問研究の自由を主張する根拠は「研究という行為が既存のものを疑い批判することによって初めて成
り立つという特性をもつ」点にある。したがって、研究の自由や言論の自由は、研究が成立するための必
要不可欠な条件であり、大学の自治は、この学問研究の自由を保障する制度として歴史の彫琢を経て承認
されてきた。私たちが、今行われている市大と都立大の改革に反対し批判しているのは、教授会や学生等
大学の構成員の意見を無視して強権的に進められる改革は、研究の自由や言論の自由に違背し、大学の自
治を侵害すると考えるからに他ならない。
ところで、研究の自由が自らの存立根拠をも疑うところに立脚するとすれば、大学人自身が自己検証す
べき多くの課題をかかえていることに気付く。60年代末「大学紛争」によって大学の自治が問われて以来
既に40年近い年月が経過しているが、この間大学の自治が発展してきたかといえば、疑問である。学生自
治会はほとんどの大学で消滅しているし、職員参加も実を結んでいるところは少ない。大学の自治は再び
教授会の自治に置きかえられ、その教授会の自治自体も活力を失い形骸化しているといわざるを得ない。
ほとんどの大学は非常勤講師なしに成り立たないが、非常勤講師の大学運営への参加は認められていない
ばかりか、身分は不安定で給料も安く研究費も支給されないまま放置されている。
また、「知識集約型社会」の到来が、大学と実社会との関係のあり方の転換をせまっているという事実も
見過ごすわけにはいかない。民間企業の研究者が、ノーベル賞を受賞しアメリカの大学に教授として迎え
られるという近年の出来事は、この変化を象徴的に示すものである。大学が最早独占的な知の生産の場で
はなくなったという社会の変化を認め、それに対応した諸制度の改革が求められていることを真摯に受け
止める必要がある。大学間のみならず実社会や行政との人事の相互交流はもっと深まっていいし、産業界
との協力を進める一方で、大学の人文・社会・自然諸科学の基礎研究機能のより一層の強化が必要である。
このことは、一般的にいわれているように、必ずしも産業社会の論理(市場原理)に大学が従うように
なることだけを意味する訳ではない。逆に産業界が大学の論理に従って変らなければならないことをも示
している。それが「知識集約型社会」という未知の社会が直面している現実であるように思われる。した
がって、産業界や実社会に対し、新しい制度のあり方を大学の経験を踏まえて提案することも大学人の責
任であると考える。
知的生産の労働は、物の生産が定型的労働であるのに対し非定型的で、投入と産出の関係が非対称であ
ることを特徴としている。したがって、その管理は効率性や採算性という市場原理だけで簡単に処理でき
るほど単純なものではない。市大・都立大改革案で示された任期制・年俸制や業績評価制度が、こうした
知的生産の特性を充分検討した上で打ち出されたものとは思われない。国の「大学改革」プランと地方自
治体の財政再建の一環として急遽作成されたびぼう策にすぎないのではないかと危惧せざるをえない。科
学技術立国を語り、「知識集約型社会」への転換を主張するのであれば、それにふさわしい制度を真剣に考
えるべきである。
本日、私達は大学人の立場から、問題を受身で批判するにとどまらず、知的生産にとって最も適合的な
制度は何か、を共に考える場を持ちたいと思いこの「講演とシンポジウム」を企画した。また、研究者が
自らそれを示すことによって、改革案に対するより根源的な批判にもなると考える。