! 都立大の危機 FAQ 廃校 or 改革?

都立大の危機 --- やさしいFAQ

H.  英語教育,情報教育に関する質問


ダイレクト・ジャンプ H-1, H-2, H-3, H-4, H-5, H-6, H-7, H-8.

H-1  見えないところで役立っているってどこかで 聞いたことあるなあ。ところで「都立の新しい大学」って時流に乗って, 英語教育とか情報教育とかには力をいれるんですよね? 次へ

ポーカス博士

おやおや,さっき話した新しい人文社会系の話を忘れたかな。 外国語の先生の大部分は,わずかなポストしかない「オープンユニバーシティ」 (旧名:エクステンション・センター) と「基礎教育センター」送りになる。 大学管理本部という都庁の組織では, 英語を初めとする外国語はすべて選択制にすると言っているらしい。情報教育も 選択制だという噂だ。 わずかな定員でどうやって英語教育や情報教育をするか,といったらその答えは アウトソーシングということになる。

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H-2  その英語教育の「アウトソーシング」って何ですか?  次へ

ポーカス博士

アウトソーシング(out-sourcing)とは,元来は「外の資源を利用する」ことから きておる。「現代用語の基礎知識2000」(P.670)によると:


業務の外部委託のこと。当初はコンピュータ関連業務が、その対象であったが、 現在では、総務、不動産管理、メンテナンス、人事、研修、福利厚生、給食、 秘書、保険、年金業務、技術開発、設計、生産などあらゆる分野に及んでいる。 アウトソーシングには、外部委託によるコスト削減、資源の有効活用以外にも、 内部では得られないスキルや資源を新たに取り込むことによる内部資源の高度化 というねらいがある。したがって、重要度の低い業務の外部委託ばかりでなく、 重要だが外部化によって効率化をはかれる業務や適任者がいないため外部化した ほうが高い成果が来たいできる業務も対象になっている。
...
しかし、コスト削減にばかり目を奪われてのアウトソーシングは禁物である。 中核業務の外注化で経営計画が策定できなかった。決算書がいい加減で 税務調査が入り、申告漏れがわかり多額の修正申告を余儀なくされた。 社員の士気が低下し、生産性が著しく低下したなどの事例が伝えられている (『何でもアウトソーシング時代の罠』 「日本経済新聞」 1999/1/24)。 ...


業務の外部委託というのは、ようするに自分の会社の社員でやらずに、 外の力を借りるということだな。その利点というのは、(1) コスト削減, (2) 内部資源の有効活用,(3) 内部では得られないスキルや資源を新たに取り込 むことによる内部資源の高度化,というのが上の説明だ。他方, (1) 中核業務の外注化で経営計画が策定できなくなった,(2) 決算書がいい加減 だったのがチェックできなかった,(3) 社員の士気が低下して生産性が低下 した,などの弊害も報告されている。
 さて,「基礎教育センター」でやろうとしているのは, 簡単に言ってしまえば「教育の外注」じゃ。駅前なんとかのN社とか,世界的に 有名なB社など外国語を教える専門学校が多いからそういう所の先生と契約して 来てもらって英語を教えてもらうという発想だ。教員を正式に雇うよりも, アルバイトで済ませる,という感覚でコスト削減をねらっている ように思える。「人材派遣」でやってきた先生に 英語を習うということになる訳だが,これが実は大問題になる。
 まず,世の専門学校の英語の先生の実態を大学管理本部は調査しているだろうか? 本当にちゃんとした資格を持って, 専門学校で英語教育をしている先生は実は少ないのだ。ちょっと日本に来てアルバイトを する,という感覚で教えている先生が多いというのが業界の常識だ。 さらにな,長期的な信頼関係を築いて一定の教育目標を持った教育ができるか否か, と問われると非常に難しい。専任の教員と同じように責任を持って授業をやってく れるかどうか,ただのアルバイトで授業が終わったらさっさと帰ってしまわないか, という危惧がある。例えば英語の授業を外部委託してしまうと, 外部委託した授業の中身にまで関与できなくなる恐れがある (委託する時の契約の仕方にもよるが,一般的に教育を外注するという 場合,外注先の先生のやることに口出しをしない,という慣例が日本にはある)。 特定の教育目標を立てて英語教育をやっても,その目標が 達成されなかったらどうするのだろうか? N専門学校からP専門学校に変えたか らといって,教育内容を改善できるという保障はない。 そして,委託先の英語専門学校が,本当に優れた先生を継続的に派遣してくれる かどうかはまったく未知数だ。 一年ごとにころころと人が変わらないようにしなければ, 授業はうまく運営できない。学生との信頼関係を構築できないのでは, (管理本部の好きな言葉を使えば) 英語のスキルアップも望めないのだ。そうなってしまったら, お役所の人事移動のようなもので,慣れるまでに時間がかかり,結局めざした 仕事,つまりこの場合はめざした英語教育ができなくなるわけだ。
 煎じ詰めれば,よい人材が長期的に得られるか, きちんとした契約のもとに教育目標を達成できるかというあたりが 一番難しい。だから,英語教育の外注で,英語教育の質が高まるとか, 学生の実践的な英語力が高まるという可能性は低い,とわしは考える。 まして,英語や情報教育すら必修科目にしないという「首大」の 方針は,学生にとって楽であるばかりか, 実践的能力を身につける機会を奪ってしまうのではないか。

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H-3  それじゃあ,さっきの話にあったような 社会に出て必要とされる実践的知識が欠如してしまわないのかなあ。 英語も他の外国語もできなければ,コンピュータの基礎知識もないような 学生って就職できるんですか? 次へ

ポーカス博士

一般的に言って難しいだろう。例えば逆に慶応大藤沢キャンパスのように, 外国語とコンピュータ教育に力をいれて,高い就職率を達成しているところもあ るからな。 しかしな,「首大」の目玉は,必修なしという原則なのだ。 外国語教育や情報教育は 必修科目にせずに選択にする。 2003年10月25日の読売新聞にも出ておったが,


新大学は,コースごとに履修科目のモデルを設定するが,学生は必ずしも従う必要 はなく,各自の将来設計に応じて科目の選択が可能になる。

ということじゃ。どうやら今のところ,外国語や情報教育にとどまらずに, 全部選択制にしてしまうようだ。学内に「カリキュラム評価委員会」を作って, 他学部や他大学の単位も認める。
ここには2つ問題がある。第一に, 外国語も情報教育もやらなくてもいいよと言われても, 学生はがんばって履修するか否か? 第ニに,学生の外国語力やコンピュータ・リテラシーを新大学で一定の水準に保てるか否か? わしには,どちらも困難だとしか思えん。 外国語の勉強を,何のしばりもなく自分で自主的にできる人間がどれくらい いるかな? 取れる単位だけ取って卒業するというパターンが増えるだけで, 資格取得と関係ないところでは就職率は下がるとわしは確信しておる。 放っておいてもどんどん好きな勉強をするような学生が,本当にどれだけ 入学してくるだろうか? わしは楽観的になれんな。 すべての授業を選択制にする,という新大学の方針が新しいものとして注目されている ようだが,好きなものだけを食っていたら成人病になるのがおちだ。

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H-4  悲観的ですね。でも考えてみれば, ぼくらパソコンなんて日常的に使ってるし,英会話だってそこそこ できるとおもうんだけど。大学で英語の勉強をする意義って あるんですかね?  次へ

ポーカス博士

新大学での英語教育に対しての意見として, 「とにかく英語がしゃべれるようにしろ」といった要望が 今でもある。こういうことを言う人たちは,自分が英語のコンプレックスを 持っている場合が多く,自分が英語ができないのは学校が悪かったと思っている ケースがほとんどじゃ。 逆に英語や他の外国語を使いこなしている人は, 自分の語学力が学校教育のおかげだと思っている人は少ないな。 さらに,「話す能力」に対しての誤解がある。 英語で流暢に自己紹介できるだけでは,英語を使いこなしているとは言えない が,<英語ができないと自分で思っている人たち>は, 流暢な英語での自己紹介を聞いただけで感心してしまう。大学での英語教育は,専門学校の英語教 育とは違う。大学でめざすべき会話能力は,内容のある話を説得力を持って public なところでできる能力だとわしは思う。。
わしもたくさんの外国語の勉強をしてきたので,失敗はいろいろしたものじゃ。 大学時代にフランス語の勉強を1年したので,フランス語はちょっとしゃべれる 状態じゃった。大学院時代にドイツに留学していた時,フランスに行くチャンス があって,パリの町中でさっそくフランス語で道を尋ねたのじゃ。「◯△□!%?」 そのパリジェンヌはおよそ5分間にわたってものすごいスピードでしゃべり続け たが,わしは恥ずかしいことに最初のちょろっとしか理解できなかった。 教訓:かたことの外国語はすぐにはなせるようになる, その前に聞き取りの力をつけよ。 そして聞き取りの力をつけるために は,その外国語の音に慣れることの他に,語彙力や熟語力をつけることも必要だ し,その言語社会で通用する共通した知識を身につけることも必要じゃ。

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H-5  そうかあ,大学での英語教育って奥が深いんだ。で も,今回の新大学の構想の中には,第2外国語の話はでてきませんね? なぜでしょうか。 次へ

ポーカス博士

それはじゃな,新大学の構想の中心的な考え方が実践的な知識を身につ け社会に直結する学生を作るところにあるからじゃ。第2外国語は, 実践的知識に属さないと見ているのだろう。第2外国語は,実際に 新入生にとって最初のチャレンジの1つじゃ。見ず知らずの言語の勉強というの は,実に難しい。しかしな,それを通して世界には英語以外の言語(外国語)があふれて いることを再認識し, 英語圏以外の文化や社会に触れることでより広い視野を獲得できるの じゃな。アジアでもヨーロッパでも実際に行ってみると,英語で用事が済む部分 は実はわずかなことを思い知らされるものじゃ。
それでな,実践的な知識を身につけ社会に直結する学生を作る, とか言っておきながら, さっきも言ったように必修ではなく選択制にするという自己矛盾じゃ。 実践的な知識を選択制のもとで身につけられる学生は,どこにいても 自主的に勉強ができる学生だな。そのような学生がどれくらいいるかを,大学管 理本部はどのように算定しておるのか。何も算定(estimation)をせずに, 完全選択制で外国語とコンピュータ教育をするのは<サメがいるかもしれない海 に裸で飛び込む>ようなものじゃ

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H-6   よく分からないたとえだけど,ようするに下調べをしないで選択制に するのは危険だということですね。でもコンピュータは自動車と同じように,動作原理なんて分からなく っても使える道具じゃないですか。大学でコンピュータ教育を受ける意味はあるのかなあ?  次へ

ポーカス博士

確かに思ったようにコンピュータが動作している内は動作原理など知らなくとも よい。しかしな, 思いもかけないような結果になった時が問題なんじゃ。例えば,ある有名な メールソフトは,ドイツ語やフランス語の文字を簡単に入力できるんだが, そのとたんに文字コードがutf-8というユニコードの一種に変わってしまう。 メールの世界は,原則的に iso-2022-jp というコードを使う決まりに なっているので,その人は知らないうちにユニコードのメールを流して しまう。相手も同じメールソフトの場合,気づかずにいることになるが, 違うメールソフトを使っている人はいきなり文字化けしたメールを 受け取ることになる。でも,文字コードの事をちゃんと知っていれば, 受け取った側でもコード変換できて読めるのじゃ。わかるかな?
現在のコンピュータ技術を支えているのは,第一に「規格の統一」じゃ。 これは,ヨーロッパでネジの大きさを統一することで産業革命の下地ができたこ とに端を発する。ハードウエアの発達の元には,しっかりした規格の策定と, それを守ることが前提となっている。文字コードも,そういった規格の1つじゃ。 第二に,現在のコンピュータが2進数に基づくデジタル処理をしているというこ とじゃ。究極的にすべての情報をいかにして0と1の世界に分解するか,という 部分が現在のコンピュータ技術の根幹にある。文字も音声も映像も,すべて 0と1の世界に条件付きで還元できる。こういった技術の裏には,さまざまな 現代社会の制約が隠されている。技術としてすぐれていても,別の理由で 普及しなかったものや,技術として劣っていても特定企業が力を持っていたため に普及してしまったものとか。そういった裏の現実を知ることもコンピュータ教 育,あるいは大学での「情報教育」には必要じゃろう。専門学校では, Word が使えるとか Excelが使えるとか問題にするが,そのような今普及してい るソフトウエアが5年,10年後に通用するかどうかは疑問じゃな。WordStarとか WordPerfect, dBaseIIとか知っているかな? 最近は MS-DOSですら知らない人も 多いから無理か...

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H-7   2004年3月4日に発表された河合塾てこ入れ案では, 何か英語教育のビジョンが変わりましたか?  次へ

ポーカス博士

基本的に変わっていないと思う。 参照して欲しいのは, 「新大 学」の教育の特色(pdf)と, 「新大 学」の英語 教育について(pdf)の絵(!)じゃ。 最初の絵の真ん中には,「実践英語」の所に,


4つのスキル(話す、聞く、書く、読む)の徹底修得
客観的指標(TOEFL500点以上等)を卒業要件に
語学学校等への外部委託の活用
ネイティブ講師、レベル別クラス、高い教育ノウハウ


と書いてある。まずはスキルの順序に注目じゃ。 日本では伝統的に「読み書きそろばん」と呼ばれてきて,読むことと書くことに 重点を置いてきた。しかし,河合塾てこ入れ管理本部案では,「話す」ことが一 番目に来る。そして「聞く」こと。前に言ったように、「聞くことができなけれ ば,本当の意味で話すことはできない」からこの順序は間違っている。 「書ける」ようになるためには、「読む」能力がないと駄目。だからこの4つの 配列を見ただけで、素人がめちゃくちゃに並べたことがバレバレだ。
 「客観的指標(TOEFL500点以上等)を卒業要件に」というのも新聞に載ってしまっ たが,恥ずかしいな。TOEFLで500点じゃあ,アメリカのたいした大学に入学すら できないぞ! 地方独立法人どして発足したばかりの国際教養大学(秋田県) は,卒業までに英語で実務可能とされるTOEFL600点以上の力をつけるこ とを目標にするそうじゃ。
 そしてあいかわらすの「語学学校等への外部委託の活用」。 語学教育の外部委託の陥穽という横浜市大の先生の書いた報告を よく読んで欲しい。わしも前に指摘したが,語学学校の内部事情を少しでも 知っている人だったら,大学の英語教育を語学学校に本気で委託などしないだろ う。その具体的な理由を いくつか挙げておくと,(1) 学位のない人材を語学教師とする場合が多い, (2) 教師が十分なトレーニングを受けていないケースが多い, (3) 教師に長時間授業をさせていることが多く, 準備や採点のための時間を与えていない。 そして実際に英語教育を外部委託している大学からの報告では, 外部委託した授業の内容には立ち入ることができず,内容やその実績は 闇の中だそうだ。そこで,第2の絵,じゃなかった文書を見るとな, 実践的な「話す・聞く」の授業は「外部委託先が授業を一括運営管理・講師手配する」 と言っておる。「話す・聞く」に関しては,語学学校に丸投げすれば成果が上が ると考えるのは大間違いじゃ。全国の語学学校に通っている人たちにアンケート をしてみるがよい。「あなたは語学学校に通って,自分の話したり聞いたりする 力が満足できるレベルまで上がりましたか?」と。「アメリカの大学でやってい けるだけの英語力が身に着いたと思いますか?」と。「自分の英語力が実践的な ビジネスで使えるレベルまで上がりましたか?」と。
 今の語学学校ブームは, ファッション的色彩が強いのに気がついていないのか? 日本人は,「学校教育が悪いから英語が話せない」と思う人が多いようだ。 「英語を話すことができない」というコンプレックスを持つ人も多い。 だが「ネイティブの先生に習えばうまくなる」とか「アメリカで生活を すれば自然に英語なんかしゃべれるようになる」という考え方は 迷信にすぎない。なぜ英語がしゃべれないって?それはな, 本気で恥ずかしがらずに,人前で英語をしゃべろうとしないからじゃ。 「ブロークンでもいいから,とにかく話す」という態度があれば, 日本にいて日本人の先生のもとで英語を学んでも十分に話せるようになる。
 もちろん, 優秀なスタッフがバリバリ教育してくれるような(管理本部の好きではない) 少人数教育をやって成果をあげ,学生も通って力をつけている語学学校も ある。そのような優秀な語学学校はごく一握りで,しかも,効果を上げるために は,絶対的に少人数(たとえば10人以下)のクラスにしなければだめだ。 大学生全体にそのような環境を作ることを,管理本部が予算面でバックアップ してくれるのなら,少しはいい実践教育ができるかもしれない。 「(新入生÷10)×週2コマ=外注の英語教員のべ人数」を本気でやるの? それだけの優秀な英語のネイティブ教師を「首大」に投入できるという保障は? とまあ,疑問だらけだ。心配だなあ,「首大」の英語教育。 「首大」学生は,どんな英語教育を受けるんだろう。 「ネイティブ活用により教育効果を最大限に発揮」って言葉はむなしい響きじゃ。

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H-8   「首大」では英語の外部テストの結果を本当に卒業要件 にするのですか?  次へ

ポーカス博士

ああ,今のところ,そのような方向で突き進んでいる。それだけではない。 TOEFLやTOEICである程度以上の成績を修めた学生には,英語を履修する ことが免除されるという。このような制度をすでに導入している私立の 大学もあるようだが,わしは基本的に語学教育,あるいは,外国語の学習 に関する誤解があると思う。この点をみごとに論破したのが, 英文の長谷川氏による「手から手へ」(第2302号)への投稿だ。

長谷川氏の投稿は,基本的に4つのNO!で構成されている。

 1) ある一定の英語力をつけたらもう勉強する必要はないのか? --- NO!
 2) 「これでもう十分」という英語力は得点にしてどのくらいか?(そもそもそ んなものが存在するのか?) --- NO!
 3) すべての学生に対して適切な一律の英語力の基準は存在するか? --- NO!
 4) 「十分な英語力」をつけた経験がない人間に、英語教育「改革」をうんぬん する資格はあるか? --- NO!

長谷川氏も述べているように,英語の実践的力というのは「もうこれで『上が り』」というような段階は存在しない。一度身につけた語学力を, 維持するだけでも日々の鍛練が必要だし,これで十分という能力段階が 存在しないから,常に磨きをかけるように努めないと語学力はどんどん落ちる。 本当に,確実に落ちていくのだ。 「TOEFLのスコアレポートの裏に『英語力は比較的短期間 でかなり変動するので、2年以上前のスコアの記録報告はできません』という但 し書きがある」のは,まさにこの点を意識しているからに他ならない。 きっと,大学管理本部の方々は,このような注意書きを読んだこともないのだろう。 例えば,大学2年の時に,TOEFLで550点とって,英語の履修を免除されてしまって, その後卒業まで何もしなければ,卒業時には,500点さえも取れない状況に なっているかもしれない。

では,どれだけの得点を取っていれば英語力を維持できるかと言われたら, そんなものはない,というのが正解だ。 つまり,「ここまで英語ができれば,申し分ない」と認定できるレベルなど ないのだ。このことは,みずからTOEFLだけでなくTOEICでも高得点を取った 長谷川氏自身が告白している。つまり,TOEFL 660点,TOEIC 965点でも, まだまだ分からないことがたくさんあるというのだ。
「ごく一般的な新聞や雑誌の記事を読んでも、 TVドラマや映画を見ても、わからないことはいくらでもあり ます。TOEICでは直接は測れない話す力、書く力も、私はおそらく日本人として は相当なレベルに達している、ということになるのでしょうが、それほど高度な 内容でなくても、とっさに的確な表現が出てこなくてもどかしい思いをすること はいくらでもあります。」
このような実感を持ったことの無い人達が,「TOEFL 550点で十分だ」 などと主張する。これにはまったくもって根拠がないと言わねばならない。 自分で,TOEFLで550点を取った人が,果たして「自分の英語力が 十分なレベルにある」と思うだろうか? 決して思わないだろう。 わしは残念ながらTOEFLを受けたことがないので,判断できないが, 英検1級は大学卒業時に取った。でも,同じように,自分の英語力が 十分ある,などと感じたことはない。常に自分の力の無さを感じさせられる 場面に出くわし,普段から辞書を引いたり,英語を聞いたり話したりする 環境を少しでも持てるように努力している。
大学での英語の勉強というのは,何点取ったからもう終り,という ようなものではない。点数とか単位とかを抜きにして, 不断に努力する学生を相手にしなければならない。 さまざまなレベルの学生に,さまざまな学習の機会を与える ことが,本来必要なのだ。そして, 実践的な語学力を最終的に高めていくために必要なのは, 強い動機づけどん欲な知識欲だ。 会話ができるというだけでは,何もならないという話は以前にもしたが, いろいろな基盤的知識(文化的知識,社会的知識,歴史的知識など) があって初めてより高いレベルの語学力を 獲得できる。このような総合的な語学の勉強は, 語学学校での語学の勉強では,普通,得られないものだ。だからこそ, 大学での語学の授業は,ただ「実践英語」に傾くだけではだめで, さまざまな基盤的知識を提供し,学生の知識欲を満足させ,さらに より多くの動機づけを提供しなければならないのだ。

3番目のポイントに関してはすでに触れてしまったが,「すべての 学生に対して適切な一様の英語力の基準」を与えることなど できない,ということだ。これは,英語に限らず,日本語を母国語とする 日本人であっても,語学力には差がある。話すのが不得意な人が いると,訓練すればうまくなる,と考える人は多いだろう。 確かにある程度はうまくなるはずだが,実は,話し方一つとっても, その能力は無限に向上するものではない。個人差があるのだ。 長谷川氏は,サッカーやピアノ,バレーやマラソンを例として 挙げているが,語学の能力に関しても個人差が明らかに存在する。 だからこそ,「外部テストで一律に550点を卒業要件」 というような決め方をするのは,間違っている。 個々の学生の資質・能力に応じた目標を設定すべき であって,テストは,その学生の語学力がどれだけ伸びたか を測る指標程度にとどめるべきだろう。

最後に,大きな疑問がある。それは, 「英語教育を改革すべきだ」と大声で論じている人達の中に, 果たして本当に自分自身がかなりの英語力を持っている と確信できる人はどれくらいいるだろう,というものだ。 長谷川氏が言うところの「虚妄のトラウマ」が,実は 背景としてあるのではないか?

虚妄のトラウマ
「自分は十分な英語力をつけられなかったが、 それはきっと制度・教育が悪かったからに違いない」

「あんなことを中学や高校の時代にやらされていた」, 「あれでは英語力なんてつきはしない」という不平不満を よく耳にする。しかし,同じ環境で英語を学んできても, 今では立派に英語を使って生活している人がいることを, こういう人達は知らない。「文法ばかりやっても駄目だ」 というのもよく聞かされた話だ。でも,英語の出来る人達の 中には,「中学や高校時代にきちんと文法をやっておいて よかった。あれが自分の今の英語力の基礎になっている」 と言う人達もいることを忘れてはならない。 つまり,実践的英語力をうまくつけられなかった人達の 不平や不満を集めてきても,英語教育の改革には結びつかないということだ。 「虚妄のトラウマ」を持つ人達が,なんとか英語教育のあり方を 変えようと提言し,改革案を作っても,それは無意味だろう。 物理教育を改善するために,物理学をまったく知らない人が出てきて, 提言をしても意味がないのと同じだと長谷川氏は指摘する。 例えば、国際的に英語を使いこなしている人達に,英語教育の改善 に関する提言をしてもらうのは意味のあることだろう。 さて,大学管理本部で呼んでいる 外部有識者の中に,そのような方がおられただろうか? 教学準備委員会で「英語の外部テストを 卒業要件にするべきだ」とか 「TOEFLで550点を得たら英語履修免除にすべきだ」と主張された方々は, 自分でTOEFLを受験されたことがあるのだろうか? 大学管理本部で働かれている方々は,みなTOEFLを受験した経験があるのだろうか? そのような方々は,自分の英語の実践力をどのように判定されているのだろうか? 是非,伺いたいものだ。 まさか「自分でやったこともないことを, やったほうがいい」と主張しているわけではないだろうな。
 大学の英語教育の改善というのは,今ではどこの大学でも検討課題と なっている。何をどう改良していくかに関して,プロの英語教育に携わる 者の間にもさまざまな考え方がある。そうした,「現場のプロ」から率直に 提言を受けて,もう一度英語教育のあり方を考え直してもらいたいものだ。

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