都立大の危機 --- やさしいFAQ

G.   大学の存在意義,研究や教育目標に関する質問


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G-1  「観光・ツーリズム」を大学で学ぶっていう のは,ちょっと想像できないな。本当に実学って感じだ。東京都のためになるっ ていうのは,東京都の財政を建て直すためなのかな? 次へ

ポーカス博士

そうじゃろう。本来の意味で東京都民のためではないな。 都立大学では,B類といって夜間の学生がいる。昼間働いていて夜, 大学で勉強している学生が多数いるのは知っているだろう? そのB類は廃止されてしまう。これは, 東京都で働きながら大学で学びたいと思っている人に道を閉ざしてしまうことだな。残念だ。 人文学部では廃止に反対しておったのだがな。都立大学は, 都民なら入学金が半額なのを知っておろう。「都立の新しい大学」では, 独立行政法人とかにして,学生数を増やし, 授業料を値上げして「採算のとれる大学」にするそうじゃ。ようするに, 東京都のためにはなっても,「都立の新しい大学」で学ぼうとする者 --- もちろん都民を含んでだが --- のためにはならない。

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G-2  あのー,変な質問なんですが, 笑わないでくださいね。東京都立大学って,都民のためのものなんですか?  次へ

ポーカス博士

東京都立大学は,他の日本国内の大学と同じように,全国区の大学じゃ。 だから,すべての勉強をしたいと思う日本人に対して開かれている。 同時に東京都立大学は,他の世界中の大学と同じように,全世界の人々に対しても 開かれている。勉強をしたいと思う世界の人々のためにある。
学問に国境はない。憲法によって,日本でも学問に自由は保障されているはずじゃ な。
もちろん,大学の研究や教育を地元に還元するという一面は重要で, これまでも都立大学の教員は さまざまな形で東京都と都民のためにも働いてきたし,協力もしてきた。 それは,今進行中の人文学部の外部評価の結果を見れば明らかになるはずじゃ。 しかしな, 「都立の新しい大学」は,もっぱら東京都の行政当局のためになるように設計さ れるということらしい。これは,2004年1月に文部科学省に対して提出され ようとしている鬼界氏(筑波大)の要望書案にもあるように 「大学設置 者は研究大学をも通常の商業施設のように短期的な需要の変動に応 じて開設・閉鎖できる、という大学と学術に関する根本的な誤解」 を含んでいる。

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G-3  でも,先生たちもぼくたち学生も, 都立大学から「都立の新しい大学」へ移ったら学問の自由を奪われるんじゃない ですか? どうしたらいいんだろう。 次へ

ポーカス博士

その通り。今回の2003年8月1日以降の東京都のやり方は,基本的人権としての 「学問の自由」を無視している。まず,日本国憲法(1946年11月3日公布) の基本を中学校の公民の教科書で復習しておこう。


日本国憲法

 国の政治のあり方の基本を定めている法が憲法です。 憲法は国の最高の決まり(最高法規)であって, 憲法に違反する法律や命令などはすべて無効です。 憲法が大切なのは,とりわけ国家の権力を統制して, わたしたちの人権を守っているからです。
 日本国憲法も,権力を統制して人権を守ろうとしています。 特に,戦前の天皇主権を否定して国民主権を確立し, また,人権の保障をいちじるしく強化しています。 さらに, 多くの犠牲を出した戦争と戦前の軍国主義の反省にもとづいて, 戦争を放棄して(憲法第9条)平和を強く求めています。
 国民主権,基本的人権の尊重,平和主義は, 日本国憲法の三つの基本原理です。
(「新しい社会:公民」  東京書籍,P.34より)


そして,日本国憲法第23条は,次のように宣言している。


第23条[学問の自由]  学問の自由は,これを保障する。

これで分かるように,日本国憲法は「権力を統制して人権を守ろう」 とする国の最高法規であって, 憲法に違反する法律や命令などはすべて無効だという点じゃ。 例えば,人文学部でフランス文学を専攻している都立大の学生が, 今回の新大学構想の結果, 2005年度4月から, 今までの都立大と比べて著しく劣った (入学時に保障された環境とは違った)学習環境 に置かれたとしたら,「学問の自由」が侵害されたと考えられる。 自分で選んだ専攻に入り,自分でやりたいと思った勉強をし始めたら, 都立大が廃校にされ新大学になってしまい,たとえ数年間, 都立大のカリキュラムが残ったとしても, これまでと同じような環境で勉強できなくなったら, 当然,「学問の自由」が侵害されたことになる。

 ここで「研究という行為が既存のものを疑い批判することによって初めて成 り立つという特性をもつ」ことを思い出して欲しい (任期制・年俸制導入と評価制度は大学と教育をどう変えるか 「講演とシンポジウム」開催趣旨より )。真理の追求において,現存する理論が絶対的に正しいと見なすような ことを研究者はしない。その根幹には,常に批判的精神を持って先人の行った研究を評価 するという姿勢がある。先人の行った研究を評価しつつも,それを絶対的な真理 だと断定するようなことはしないのだ。このような批判的精神が<学問の自由>や <大学の自治>の背後にある。そして一部の独裁的権力をふるっている政治家達 は,このような批判的精神が嫌いなのじゃ。批判されることに耐えら れないような幼稚な精神構造を持っているのだ。だから, 勝手に大学の研究者達が<学問の自由>を主張して研究を続けることに我慢でき ず,自分達の思ったような研究だけをするような大学を作りたがっている。

東京都の2003年8月1日以降のやり方は, 「学問の自由」を無視したやり方だ。 今の東京都知事は,2003年4月に300万票以上を獲得して当選したが, だからといって,研究者や学生の「学問の自由」を奪う権利はない。 1千2000万人の東京都民の内の300万人が支持したといっても, 都民の4分の1にしか過ぎないことも認識すべきだ。
 今の日本には, 声の大きな政治家の後にただ盲目的についていくという傾向が顕著じゃ。 よく考えて反対するべきことには,ちゃんと声をあげていかないと, 民主主義は成り立たないことを忘れてはならない。

「教育は百年の計」というだろ。 都立大学がこのまま東京都の思うように変えられていったら, 全国にこのようなトップダウンの大学改悪が充満し, 百年後の日本は 滅んでいるじゃろ。
「学問は,人を作るもの。」
「学問は,ただ金儲けのためにあるのではない。」
そして,基礎学問は, 直接的に国や地方自治体の利益に直結するものではないが, 知的財産である,ということを忘れてはならない。

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G-4  その基礎学問の必要性というのがよくわからないん ですが? 次へ

ポーカス博士

たとえば,実践的な学問として知られている医学を例にとってみよう。 医学の世界にも,基礎学問としての性格を帯びた研究分野がある。 つまり,その研究が今すぐ「死にかけている人の命を救う」とか 「ある種の病気の根絶」につながるというわけではないような 研究分野じゃ。寄生虫というのを知っているかな,ホーカス君。 寄生虫を研究する分野を寄生虫学というが,今,日本全国の80にのぼる医学部 で寄生虫学を講座として持つ大学は,その半数にも満たないそうで, その数は近年減り続けている(藤田紘一郎著『笑うカイチュウ』講談社文庫ふ47, P.28)。東大や京大にも寄生虫学の講座はないそうじゃ。 なぜかって? そりゃ,日本から寄生虫なんていなくなったから, 研究するに値しないと誰かが思ったからだな。しかし現実には, 東南アジアに滞在した人達や, いわゆる「ゲテモノ食い」の人達がかなりの確率で寄生虫に感染している ことが分かってきた。しかし,時すでに遅し。多くの医者が, 寄生虫学なんて学んでいないから,診断なんてできないのじゃ。 かくして知らないうちに, 日本全国に寄生虫がはびこっている事態になっている。
 教訓。ある種の学問を簡単に役立たないと決めつけてはならない。 地味な基礎的な研究が,思わぬところから, 思わぬ展開になって,未来では脚光を集める研究となる可能性がある。 脚光を集めなくても,欠くことができない人類の知恵になるかもしれん。 研究や教育を近視眼的に見て,役立たないとか社会のニーズがないと 決めつけて排除してはならない。 よいDVDプレーヤーを作れる会社を作るのが教育の目標ではない。

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G-5  現代社会 で生きていくためには,やっぱり実生活で役立つ知識も必要だし。大学ではもっ と実践的知識を教える必要があるのではないかと思う部分もあるんですが, 先生はどう考えますか? 次へ

ポーカス博士

実践的知識が必要だということを否定してはおらん。わしもDVDプレーヤーは, ありがたく使っておるしな。ただ実用性だけを考えたら,「大学なんて不要だ, 専門学校だけあればいい」という意見も出てくる。「古典的な教養主義」と 「実践的知識」のどちらが教育にとって必要かという議論は,英語教育の 論争としても昔あったな。結論を言うと,「教養」も「実践」も大学教育にとっ て必要だ。要は,「教養」と「実践」のバランスじゃ。

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G-6  じゃあ,東京都のために大学が役立って いないんじゃないかという批判にはどう答えるんですか? 次へ

ポーカス博士

それは,きちんと調べていないからそんなことを言うんじゃ。 入試の時に一緒になった工学部の先生は,土木工学で「橋」を専門にして いるとのことじゃったが,東京都のいろいろな現場に出かけていき, 専門委員会の委員として大学外の活動を自腹を切ってされていた。 工学部とかの先生方は,社会との結び付きが強いと言えるな。
 法学部の先生というのも実社会と直結している。いろいろな社会的場面で, 特定の法律に照らしてみて合法か否かの判断を迫られる場面があるからな。 経済学部の中でも経営に関連した先生達もきっといろいろな社会からの 要請を受けているはずじゃ。
 都民カレッジというのを知っているかな? 東京都立大学の多くの教員と, 他の大学の先生たちなどが講師となって,都民を対象にいろいろな講座を開講して 知識の還元をしていたんじゃ。都民のためにやっていたことだが, 赤字だという理由で現在の知事の元で廃止された。大学の先生の知識を 社会に還元するという意味では重要な組織じゃったのだが。 これは大学教員の悪いところかもしれんが, 「私はこんなに自分の研究を社会に還元をしています」 と自己アピールする先生は非常に少ないのじゃ。

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G-7  東京都の財政危機があるから,都立の大学も 経済的に効率化すべきだという議論をよく耳にするんですが,それはしょうがな いことですかね? 次へ

ポーカス博士

確かに東京都は巨大な財政赤字を抱えている。財政赤字を解消するためには, 「聖域を設けずに合理化(人減らしや組織改革)」が必要だという議論がある。 しかしな,わしはそれに断固として反対する。経済を最優先する考え方は, 教育,福祉,それに家族といった領域に導入すべきではない。なぜなら,これら の領域では優先すべきことがらが質的に異なるからじゃ。 12月24日に例によって古い数字と偏見に満ちた空虚な知事会見が行われたようじゃが,実は12月23日には, ドイツ連邦共和国のラウ大統領の次のようなクリスマス・スピーチがあった。


ラウ連邦大統領は、クリスマススピーチにおいて「あらゆる領域における 社会生活のすべてを」今後、「経済と効率というモデル」に合わせてはならない と警告を発した。「バランスシート」、「資本」、「資源」というのは経済に おいては不可欠の概念であるが、それらの概念はあらゆる生活領域に通用する ものではない。あらゆる生活領域が「経済的法則」のみに従って作られてしまう と、社会は袋小路に陥ってしまう。学校や大学は企業ではないし、 教育は「単なる職務トレーニング」以上のものである。また家族というものも、 単なる商売ではない。「家族とは、お互いのために過ごす時間を持つこと、 意見交換や祝い事のための時間を持つこと、会話や相互理解のための時間を持つこ と、そしてお互いに許すための時間を持つことに基づいて成り立つのだ。」
さらにラウ大統領は、次のように続けた。 病院は健康マシンではなく、真の援助と世話は、 「世話のノルマ」だけで定義できるような課題ではない、つまり、 年寄りにも若者の場合と同じように援助の手を差しのべねばならない。 同時に、社会は「柔軟性、大胆な行為、好奇心、そして新たな事を始めること」 に基づいて行くべきだ。社会は、団結と相互に義務を負うことが存在して初めて 機能するものだ。「これは、効率性を試算することの中には生じ得ないものだ が、その団結と相互義務からこそ、われわれが生きる糧とするような暖かさの流れが生ずるのだ。」
(フランクフルター・アルゲマイネ紙 2003年12月24日版より) ドイツ語原文の抜粋


飛行機の中でこの文章を読んだとき,一国の大統領が国民に向かって呼びかけた メッセージの重さを感じた。そして、 それは単にドイツという国の国民にだけでなく、全世界の人々に対してのメッセージであった。 「経済効率」を求めることがあたりまえのように語られる世界が,現代社会 の一つの特徴となっている。しかし, そもそも学校、大学、病院、老人ホーム、そして家族の中で「経済効率」 が語られるのは間違っている。それは、上でも言ったように、本来めざす目標が 違うからじゃ。つまりな、学校、大学、病院、老人ホーム、そして家族の中で は、(資本主義の)利潤の追求が最終目標ではなからだ。人間的な暖かさ、それは ラウ大統領の言葉を借りれば「団結と相互に義務を負うこと」から生まれるとい うのじゃな。
都立4大学の廃校,新たな都立の新大学の設立という今回の騒動の本質的問題点は, このような誤った効率追求主義にある。このような発言ができる 政治家が今の日本にはほとんどいない,というのも残念なことだが...

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G-8  これからの独立行政法人化された大学はどうなるん ですか? 次へ

ポーカス博士

一言で言うと独立行政法人化された大学は,コンビニ化する。 (国立大法人化 北海道大学教官の「憂鬱」 第3回 参照) すでに,「首大」の特色(A-3) でその概略を説明したが,これは「首大」に限ったことではない。 コンビニ化の3大特徴とは,(i) 商品の集中管理により売れる商品だけをとりそろえる, (ii) 常に新製品を店頭に並べることを心掛けるから,相対的に売れゆきの 悪い商品はすぐに引っ込める,(iii) 目玉商品は大々的に宣伝することで, 他のコンビニとの差別化をはかる ことだ。 コンビニ化の プロセスはいろいろ考えられるが,いくつかのシナリオを示してみよう。 (参考:石井紫郎『巻頭言:大学評価と国の大学政策』「科学」4月号,2004年)

<シナリオ1>
(1) 独立行政法人化により,大学に経営的視点が導入される。
(2) 独立採算制となり,教育は原則的に授業料収入でまかなわれるようになる。
(3) 学費が私立大学と同じレベルまで上昇する。
(4) 学生(あるいは親)は高額の授業料を収めるために借金をするケースが 増える。
(5) 授業料の高い理系や医学系の進学希望者が減る。
(6) 学生数を確保できない基礎学問(数学,生物学,言語学など)は廃止される。
(7) どの大学も競って社会に出てから実益に結びつく分野(法科大学院,ビジネ ススクール,環境工学など)に力を入れる結果,生き残った大学は どれも同じようになる。
(8) どの大学も同じようになった結果,一部の学部で学費値下げのバーゲンが始まる。
(9) 資金力のある大学だけが生き残り,それ以外の大学は淘汰される。

<シナリオ2>
(1) 独立行政法人化により,大学に経営的視点が導入される。
(2) 研究費は大学から直接出ることはなくなり,競争的外部資金を獲得することが前提となる。
(3) 外部資金獲得のための競争が激化する。
(4) 資金の得られない研究分野は,成果を出せずに衰退する。
(5) より多くの資金獲得のために,著名な研究者の引き抜き合戦が始まる。
(6) プロジェクトを成立させ運営するための資金を確保するため,他のプロジェク トに情報を流さないようにする動きが加速する。
(7) 大学間の研究交流が減少し,学会では秘密主義が常識化する。
(8) 秘密主義,人的囲い込みが加速し,学問のレベルの低下を招く。
(9) このような現実を見た研究者は,今まで以上に海外へ流失していく。

<シナリオ3>
(1) 独立行政法人化により,大学に経営的視点が導入される。
(2) 企業にとって有用な研究だけが重視される(社会的有用性に直接結びつかない研究や学問は, 評価されない)。
(3) 社会的有用性のあると見なされる一部の 「重点領域」だけに研究や学問がかたよってしまう。
(4) 特定分野の研究者だけが増加し,競争が激化する。
(5) 同じような状況が全国の独立行政法人化した大学で起る。
(6) 学生にとっては,どの大学も<多少の味付け>は違うものの, 同じように見えるようになる。
(7) 淘汰される大学が増加する中で, 生き残った大学は個性を出そうと<目玉商品>(「首大」の ナノテクノロジーとか)をつくり出す。
(8) <目玉商品>の開発と販売には多額の資金がかかるので, 社会的有用性が少ない研究分野をどんどんスクラップする。
(9) <目玉商品>以外の研究分野の魅力が薄れ, <目玉商品>以外の分野では研究者が育たなくなる。

<シナリオ4>
(1) 独立行政法人化により,大学に経営的視点が導入される。
(2) 教員はすべて任期制になる。
(3) 任期終了時点での評価体制が確立していない大学が 多いため,訴訟が増える。
(4) 教員は,自分の研究や教育を評価する立場にある人(その可能性のある人) に媚びるようになる。
(5) 分かりやすい研究,成果がすぐ出るような研究や教育が盛んになる。
(6) 評価が低そうな研究分野(長時間かかる研究,社会的有用性と結びつかない 研究など)の人材が減少する。
(7) 研究者は,評価を中心に考え, 学問的研究価値を捨ててしまうため,研究者としてのモラルが低下する。
(8) 醜い研究者の争いが増加し,社会問題となるため, 研究職,大学の教員職の魅力がなくなり,後継者が育たなくなる。
(9) 日本の大学数の減少と同時に,日本の学問レベルが全体的に低下する。

こんなシナリオなんて嘘っぱちだと思う人は,例えばサッチャー政権下で 行われたイギリスの大学改革がどんな結果をもたらしたかを調べてみるとよい (NHK が肯定的な番組を放送したらしいが)。 もっとも悲劇的なのは,ニュージーランドの例だ。 この報告書 を読むと,現実に似たようなことが起きていることが分かる。 日本の国公立大学の独立行政法人化は,今, 同じような方向に向かっている。このままで放っておいては駄目なんだ!

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G-9   いったい現代社会の中で大学はどうあるべきなん でしょうか? 社会が大学に求めているものと大学の求めていくものが違ってい ていいのかどうか,よく分からなくなってきました。  次へ

ポーカス博士

大きな問題だな。一方では社会からの要請に答える(今風の言い方をすれば,社会のニー ズに沿って改革する)ことも大学に求められるが,他方では時間を超越した真理 の追求も大学での研究・教育では重要じゃ。この両者のバランスが重要なのだが, これまでの「首大構想」は、あきらかに「社会のニーズ」ばかりを 見ているところが問題なのだ。「これまでは,研究者要請を目指していたから 今度は社会の要請に答えるように転換しよう」という発想は,これまでの資産を 捨てて,180度逆に進もうという馬鹿げたものだ。大学での研究・教育が, すぐに成果が出るものばかりを追いかけるようになったら,大学の価値は無くな り,存在理由も無くなる。教育評論家 梨戸 茂史氏が『文部科学教育通信』 に「教育ななめ読み 45 『埋蔵金?』」という タイトルで東大の海洋研究所の惨状を例に挙げながら書いている: (全文はここ(外部リンク))


一方で、東大の海洋研究所の「惨状」を掲載するマスコミ(Y新聞〇四年二月 二五日夕刊)。謎だったウナギの産卵場所を太平洋にみつけたり基礎研究で多 くの成果を上げていると評価。しかし五階建ての本館は四十年もので耐震性に 問題あり、一人当たりの研究スペースが基準の半分、廊下には実験装置やロッ カー。守衛所も研究室に改装、敷地内の貨物コンテナも観測機器の倉庫になり、 高価な質量分析機がプレハブ内に設置され近くを走る車の振動の影響を受ける などなど"涙を誘う"お話。あげくに「・・・法人化後、研究費の削減も予想さ れる」と述べる。
 これは予想などではなく"現実"になる。およそ基礎研究など、すぐには役立 たないものが多く、ウナギの寝床がどこにあろうがちゃんと日本近海に回遊し てくれて"土用の鰻"に間に合ってくれれば良いのであって、TLOや知的財産本部 で有用な「特許」として認められるのは難しいのだ。
 大学にはこの類の基礎研究は山ほどある。明日の産業になろうがなるまいが 「面白い」から研究しているのだ。
 その中に、すぐには成果が出たり価値が分からないが、後世の人類の福祉や 幸福に役立つものが埋もれているはず。これが本当の"宝の山"で、幕府が埋め た「埋蔵金」を見つけて、直ちに産業界の役に立たそうという発想とは次元を 異にする。

教育評論家 梨戸 茂史「教育ななめ読み 45 『埋蔵金?』」
『文部科学教育通信』2004年4月26日号 No.98.


梨戸氏が言うような本当の意味での「埋蔵金」は,人類全体にとって非常に大き な意味を持つ。大学における基礎研究に「社会のニーズに答えていない」という烙印を 押して研究費を削減し,研究者を追い出すようなことをしてはならない。
 遠山敦子前文部科学大臣は, 問題だらけの国立大学法人化法案(O-5)を通過させてし まった責任者の一人だが,その著書「こう変わる学校 こう変わる大学」 の中で次のように述べている。


そこで最後に、世界に誇れる大学をもつための社会の側の条件を整理しておこう。
一 --- 過剰な干渉より、ポジティブ・フィードバックを
 大学が社会の期待をもっともよく実現するために何をすべきかについては、 大学の主体性を尊重して決めることが必要である。
 この点については、近年きわめて強い異論もあるが、ただ性急に改革を強要 しても決してうまくいかない。むしろ、社会は、大学に対し、社会の期待に どう応えているかについての説明を求め、よりよい貢献に対してプラスの フィードバックを行っていくことが重要である。
二 --- 大学には大学の使命を果たすことを期待する
 即戦力の養成、事業化に直結する開発研究や企業内訓練の肩代わりを大学に 期待することはできるが、大学の本来の使命は、将来の変化に対応し得る資質能 力の涵養(かんよう)であり、未来の知を生み出す基礎研究である。
 周辺的な機能に期待しすぎると、大学は大学本来の使命を果たせなくなる。 そうなったら、大学の役割を肩代わりしてくれるものはない。
三 --- 受益者としての責任を果たす
 大学の教育研究の受益者は、学生だけではない。戦後の大学と社会の関係 をめぐる歴史の最大の教訓は、社会は、常に大学を最適の環境の中で育てて おく必要があるということである。
 日本の大学に米国の大学との競争を求めるなら、日本の社会は、大学に対し、 それだけの資金援助を含む条件整備の責任を果たす必要がある。

遠山敦子「こう変わる学校 こう変わる大学」2004年,講談社.P.242-243.


なっ,いいことを言っているだろう? 遠山氏は,さらに別の個所で(P.237-238),日本の大学に関して次のような数字 も挙げている:

一 --- 高等教育公財政支出は、対GDP(国内総生産)比0.5パーセントで米国 の約半分以下(OECD諸国の中でもっとも低い)
二 --- 政府の競争的研究費は約3500億円で、米国の約10分の1
三 --- 学生納付金は高いが、それ以外の民間資金(団体・個人からの寄付収入 や大学自身の基金収入等)が乏しいため、民間支出も対GDP比0.6パーセン トと米国の半分以下


このデータは,よく知られたデータなのにも関わらず,大学改革の話の 時にほとんど引き合いに出されない。なぜか? それは,高等教育に国がお金を かけたくないから,とも読める。経済効率追求の現代においては, 最小のコストで最大の利益をあげるのが良しとされるから, お金をかけたくない。お金をかけるのなら,すぐにその成果が欲しい。 それが現代の効率主義だ。この原則だけで改革を実施してしまうと,やがて大学教育や 大学での研究は間違いなく滅んでしまうじゃろう。 社会が大学に求めるものは時代と共に変化していく。 大学が求めるもの,追求するものは,その時々の社会の求めるもの を含んでいるべきだが,もっとずっと大きなものなのだ。 大学への社会の要請は,大学が追求するものの真部分集合でしかない。

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