都立大の危機 --- やさしいFAQ

V.  知ってましたか? 今の都立大の制度と現状


都立4大学の解体が進んでいます。そんな中で,今の都立大学が持つ 制度や特徴を確認してみましょう。「えっ、そうだったの」と思うこともあるはず。 「首大」の制度を考える時,現在の都立大学の制度と比べて見れば, いかに違うかが分かります。どちらがいいシステムか,一目瞭然でしょう。

ダイレクト・ジャンプ V-1, V-2, V-3, V-4.

V-1  都立大では,総長や学部長選挙で学生が参加できる 制度があるそうですが,どんなものですか?  次へ

ポーカス博士

2004年6月20日,「都立大「改革」問題の集い」で配られた「都立の大学を考え る都民の会」代表の金子ハルオ氏の資料(P.5)から,その説明部分を引用しておこう。


東京都立大学は、創立以来、教員、職員、院生、学生という大学の全構成員 による「大学の自治」を標榜し、それによってどの大学にも負けない 「自由な学風」を培ってきた。総長の選出についてみると、全学の教員と 職員によって選出された総長推薦委員会が3人(最近では5人)の総長候補者 を選考し、院生と学生は、その候補者について信任投票をし、 全有権者の2分の1が信任しなかった者を候補者から除く排斥投票権を 持っている。このようにして候補者が院生・学生の信任を得たことが示されてか ら、全学の教員の投票によって総長が選出されるのである。学部長も、 学部によって相違があるが、各学部の教員と職員による候補者の選考と 投票によって選出される。大学の管理運営機関である評議会を構成する 総長、学部長以外の評議員は、書く学部の教授会で教授の中から選出される。 すべての教員の採用と昇格は、実質的には教授会における選考と投票に よって行われ、評議会の昇任と総長による任免は全く形式的なものである。
(下線部はポーカスによるもの)


一方,「首大」の理事長や学長の決定に関しては,管理本部は 11月13日の東京都文教委員会で次のように説明している。


調整担当参事 地独法では理事長は知事が任命し、学長は学長選考機関の選考に 基づき理事長が任命するとなっている。ただし、法人設立後最初の学長は定款の 定めるところにより、理事長が任命することになっている。定款には、知事の指 名に基づき、理事長が任命する旨規定する予定である。



簡単に言ってしまえば,知事が理事長を任命し,理事長が(学長選考機関の選考 に基づき)学長を任命する。

学部長や教員の採用に関しては, D-4 で説明したが,要点だけを言うとこうなる:
● 学部長は,学長の申出に基づき理事長が任命
● 教員採用は,公募制により,理事長が任命
● 教員の昇任,懲戒等は経営側の参画する組織で審査のうえ決定

となっている。「首大」では, ほとんどの権限を理事長が握っている 専制体制(tyranny)であることがよく分かるだろう。そして,その 理事を選ぶのが東京都知事なのだ。いかに都立大学のシステムと違うかが よく分かるだろう。

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V-2  都立大の都市研究所ってよく知らないんですが, 「首大」ではどうなるんですか?  次へ

ポーカス博士

2004年5月25日 朝日新聞(朝刊,社説)「都立大統合――現場の声をよく聞いて」 にも 「都市科学研究科や都市研究所をつくったのは、ほんの10年前だ。」 と書かれていたので,「ふーんそうか。」と思った人も多いだろう。 何しろ,朝日新聞の社説だからな。しかし,L-15 でも述べたように,実はその歴史は1977年(昭和52年)にまでさかのぼる。 27年前に,「都市研究センター」という形で発足し,活動を開始したのだ。 当初は専任研究員のいない組織だったが,1982年には過去5年間の実績を ふまえた上で,将来構想が検討された。将来計画小委員会は,「都市研究セン ターの現状と課題」というパンフレットを作成,さらに「都市研究センターの 充実について」という文書を総長に要望書として提出している。 その要望書に答える形で,1983年度予算要求の 中で,初めて専任研究員(教授)3名の定数化が東京都から認められ, 1984年度には2研究室と1事務室のスペースが旧目黒キャンパスに初めて設置された。 当初は,プロジェクトの内容にあわせた「都市住民・コミュニティ部門」 ,「都市防災・安全部門」,「都市管理・計画部門」が当面措置として 作られたが, 1991年には,「都市システム・経済部門」,1992年には「比較都市・文化部門」, 1993年には「都市構造・環境部門」が開設され,翌年には「地域保健・福祉部門」 が盛り込まれ合計で7つの研究部門が1994年にはそろい,研究所組織への 改組が行われた。
1994年には昼夜開講の独立大学院としてスタートし,10人の専任教員が修士 課程の専任教員として教育にもたずさわるようになった。都市研究科長の 本年度の挨拶の中には、これまで120人以上の修士(都市科学)と13人の 博士(都市研究)を世に送り出しているそうだ。 これまでの研究プロジェクトのテーマをいくつか挙げてみると:

1983〜1989年「東京を中心とする大都市の総合的研究」
1988〜1991年「大都市高齢化社会の問題状況と政策課題の総合的研究」
1990〜1993年「大都市の緊急防災システムの最適化とその効果的運用に 関する総合的研究」
1994年〜1997年「都市における土地政策と土地利用に関する国際的な共同研究」
...
1998年〜2001年「循環型社会とまちづくりに関する総合的研究」
などなど(「東京都立大学五十年史」(P.299-305)参照)

ここまで話したのには,もちろんその先があるからだが,これだけの研究や教育 活動をしてきた「都市研究所」が「首大学構想」のどこにも入っていないのだ。 「首大」の使命は,「大都市における人間社会の理想像の追求」だったはずだが, この立派な都市研究所が組織上消えてしまう。 「都市科学」は,現在は一つの(大学院の)「研究科」なのだが,「首大」大学院では 1つの「専攻」にもならないのだ。「都市環境科学研究科」の中の「建築都市 専攻」の中の一分野にすぎない。
 そこで当然誰でも疑問に思う。<大都市>東京の研究を奨励すると言って おきながら,なぜ都市研究所を潰さねばならないのか? 答えは簡単だ。 「首大構想」は,研究や教育をやろうという配慮 の元に作られたのではなく,人員削減,赤字解消が主たる目的だった からなのだ。そして,たくさんの大学が集中する東京にあるから, 政治家と役人は 「東京都がやる大学として都市研究に特化しよう」と考えた。その時, 都市研究所があるなんてことは,ほとんど目に入っていなかった。 そして,「都市研究所」の存在が分かったとき,都市研究センター発足が1977年 (1967〜79年まで続いた美濃部亮吉都政の間)だったことに誰かさんが気づ いたのかもしれない。
 管理本部は,「大学全体が<都市>を指向しているのに,その中にさらに 「都市研究」の部署があるのはおかしい」と言っているようだが, 違うだろう!「都市研究」を中心にするなら,「都市研究」の専門家が きちんと研究や教育のできる場を設けるのが常識というものだ。 独立した大学院組織を潰しておいて,何が「大都市における人間社会の理想像の 追求」なのだ? 「都市教養学部」には,都市の専門家などほとんどいない はずだ。知らないうちに,自分の所属している学部に「都市」が付いて しまった,と当惑している教員がほとんどだ。

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V-3  都立大の教員の研究費配分には,何か特色がありますか?  次へ

ポーカス博士

都立大学では,まず第一に中央図書館で専門書を購入するための独自の予算がな いため,図書は専攻内の予算でまかなわなければならない,というのがある。 これは,学術図書を購入するための図書費という区分がない,ということを意味する。 第二に,毎年10%削減されている。そのあたりのことを説明しよう。

わしの場合,7年前に都立大に来て以来, 大学からもらう個人研究費はほとんどゼロだった。文系の場合,図書費が支出先 としてその大部分を占めるのだが専攻単位で,プロジェクト費として都から支給 されるお金は,大部分が継続図書と継続雑誌で消えてしまう。その年によって, 10万円位の範囲で個人の希望する本が買えたこともあった。それから,研究旅費 だが,だいたい地方学会に1回行くと消えてしまう(7〜8万円)。 N-11, N-13, N-14, で述べたように,「首大」の予算配分方式を本年度から前倒しで実施するという とんでもないことが強行されている。 研究費の傾斜配分という名の元で強行されているのは,ただでさえぎちぎちの 研究費を,研究費配分検討委員会(実体は 経営準備室運営会議と同じ) が,44%だけを第一次配分として 支給し,その残りの8700万円を大学管理本部にプールし, 残りの3億5000万円を「首大に就任する意思のある教員」に限って,プロジェク トとして申請して,それが通れば獲得できるという競争的資金としてしまった。 これがどのような破綻を招くか,わかるだろう? 継続図書・雑誌,そして研究旅費を全部合わせてもぎりぎりだったのに, その44%しか支給されなかったらどうなるか? まず,わしのいる専攻では研究旅費はゼロと決定された。 学会へ行くときは,休暇を取って自費で行くしかない。研究発表が あろうとなかろうと,そんなお金は都から出ない。 継続図書・雑誌につぎ込まれる予算もこれではまったく不足するから, 契約をしている本屋さんに連絡し,できるものから契約解除をしていく 方針を立てた。契約解除なんて,そう簡単にはできない場合もある。 本屋によっては,「違約金を請求する」と言ってきているところもあるので, それは,「東京都の大学管理本部の経営準備室運営会議宛にお願いします」 と言うことにした専攻もある。

8月に入って,傾斜的配分の研究費に関しては,ほとんど全額支給という ことで決着がついたようだ。この傾斜的配分に応募していたほとんどの ところで,予算獲得ができたらしいので,内部的には予算的に困った所 を助けることもできるのではないだろうか。本屋から訴えられることも おそらく防げるだろう。もっとも,「首大」非就任者だけのところにも 予算が均等にまわるのかどうかは,分からない。

いずれにせよ,都立大では,個人で自由になる研究費が少ないところから,文部科学省の 科学研究費を獲得することを目指すことになる。実際に,さまざまな プロジェクトを組んで研究しているので,そこから資金を得ることが 唯一の救いだ(それが理由かどうか分からないが,都立大学による 科学研究費獲得の上昇率は,昨年度確か全国の大学でトップレベルだった)。

N-11で, 都立4大学では, 「統一単価は、平成15年度単価に10%シーリングをかけ,傾斜的配分研究費 を確保するため,更に20%削減した」 という部分があったが,あれは何のことかわかったかな? 都立の大学の研究費が毎年およそ10%ずづ減らされてきた ということだ。「10%減らす」ことを「10%のシーリングをかける」(ある いは,「10%のマイナス・シーリング」)と表現する。 その結果,都立の4大学の研究費は,なんと1996年度の およそ半額になってしまっているのだ!都立の4大学あわせて600人を 越える教員がいて,研究費が10億円に満たない状態になっている( 「大学に新しい風を」第1号,P.10)。これは,単純に割り算すると, 一人当り142,8万円ということになるが,理系は文系よりはるかに 多くの研究資金を必要とするから,単純な割り算では意味がない。 ただ目安として,44%減になると142,8万円が,628,320円となる ことだ,と表現すると分かりやすいだろう。 理学研究科の宮原先生の試算によると, 理工系研究では150万円の研究費の最低保障が必要だとしている。 これは,自分自身の特別な研究をするためのものではなく,日常的な研究活動の継続に必要な額だ。 これでは全然足りないので,当然外部資金の獲得を目指すことになる。 ただでさえぎりぎりの額しかもらっていない研究費だが,「首大配分方式」 でこの少ない予算を配分してしまうと,宮原先生の指摘を待つまでもなく, 研究継続のための最低保障すら得られずに研究者として生き続ける ことができない。大学の研究は,教員にとって教育とも密接に結びついて いるから,教育にもダメージを与えることになる。

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V-4  都立大の「昼夜開講制」ってどんな制度なんですか?

ポーカス博士

1949年に設立された東京都立大学では,昼と夜の区別を設けない授業形態を 導入し,従来の夜間部とは違った「昼夜開講制」を行った (当時は「昼夜通し制」と呼ばれていた)。 その特徴は,
(1) 昼夜を通して同等の授業を開講し(昼夜通し制)
(2) 学生は昼夜の授業を自由に聴講できる(自由聴講制)
で成り立っていた。簡単に言ってしまえば,学生は昼でも夜でも自分の都合に 合わせて受講できる制度だ。昼と夜の区別を設けないことは,当初, 定員の上でも同様で,ただ夜間のみの受講では卒業に5年かかるとされていた。 入試も昼夜同一の試験で実施され、合格者も昼夜の別なく成績順に決定されてい た。このような制度は,都立大職員にとっては大きな負担となったが, ユニークな制度として対外的にも知られることとなった。

しかし,夜間の学生のための教職員組織を持たないところから,教職員の 負担も増え,実験や実習をする理系の分野ではかなりの困難がでてきた。 工学部では1956年に,すでに教員の3/4が夜間授業を廃止した方がよい, とのアンケート結果が公表されている。さらに,文部省も「正式に 夜間部として申請していないのに,夜間の授業を行って卒業させる」 というのは問題で,もし続けるのなら,正式に夜間部の申請をするように, との行政指導が1955年12月,1956年3月に行われた。
それをうけて1956年には臨時制度調査委員会が発足し,答申をまとめ, それに基づき現在のA類,B類の区別が誕生した。1957年には,大学設置 審議会の答申に基づき,「第一部,第二部」という昼と夜の別々の 制度として許可されたが,学内的にはA類,B類という言葉が 使われるようになった。2部制の欠点をなくすという趣旨で スタートしたのに,このように従来の昼間部と夜間部という枠にはめられて しまったのは,不本意なことだった。

さらに法経学部の新設が1957年に認められたのと合わせて, 実質的な区別がA類とB類の間につけられるようになった。 つまり,A類とB類の定員を区別し,それぞれの類の学生は, 自分の所属する類で履修するのが原則となったのだ。 他の類を受講する場合,A類の学生はB類の授業を18単位まで, B類の学生はA類の授業を14単位まで申請できるものとされ, それを越える履修には許可が必要となった。

このような制度改革の後で顕著になってきたのは, B類においては「人員や設備が不足している」こと, 「教育時間の不足と教育内容の低下」,「勤労学生に適した教育」, 「多数のB類からA類への転類希望」,「A類とB類の学力差」 だった(1967年1月31日, 制度検討委員会報告「昼夜開講制に関する論点について」)。 その後もA類,B類制度の見直しは検討されたが,大学紛争の 影響を受け,議論が深まらないまま放置されてしまったようだ。

そして,2003年度をもって,B類は募集停止となり,本年2004年度 には,都立大学からB類の1年生が消えてしまった。 B類の存在,そしてその当初からの理念だった「昼夜開講制」 は,本来の形で存続すれば,むしろ現代の自由な履修を許す傾向と合致した優れ た制度だったと考えられるが,一方的に「勤労学生が減っている」との 都議会の議論から,廃止へと進んでしまった。 数は少なくとも,本当は需要がある「夜間」の履修コースが消えてしまったこと は,非常に残念なことだ。「勤労学生」は,ある意味で社会的弱者の立場にある。 昼間は働かなければ生活できないが,なんとかして勉強して大学に入って, より高度な知識や技能を身につけたいと思う人達が今でもたくさんいるはずだ。 そのような機会を東京都は「首大構想」で奪ってしまった。 昨今の東京都のやり方に共通しているのは,弱者切り捨てと, 文化切り捨て,そして産業界への色目だな。 公的教育機関が,本来,率先してやるべきことではないと思う。

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