X-1 「首大」は,「入りやすく出にくい大学にする」 とかつて石原都知事は言っていましたが,本当にそうなるのですか? 次へ
ポーカス博士2000年6月,石原慎太郎東京都知事は,確かに都議会所信表明で次のように宣言した。
「私は、新しい大学のモデルを東京から発信す ることにより、日本の大学から日本のすべての教育を変えていく引き金としたいと考え 、都立の四大学の改革に着手いたしました。具体的な内容は今後明らかにしてまいりま すが、大学がいたずらな象牙の塔となることなく、教育者間にも健全な競争原理が働く ように改めるとともに、独立採算制をも視野に入れ、経営面の改革に取り組んでいきた いと思っております。また、学生にとっては、生きた学問を修得する場となるためにも 、入学がしやすく卒業しにくい大学を目指していきたいと思っております」
「入学がしやすく卒業しにくい大学」というキャッチフレーズは,これ まで多くの日本の大学,とりわけ私立大学で掲げられて,さまざまな形で実践的 目標とされてきた。「首大」が本当にこの目標を達成できるか,と問わ れれば,答えはNOだ。W-7でベネッ セの発表を紹介したが,偏差値は下がっているので入学しやすい大学にはなるだ ろう。問題は,「卒業しにくい大学」という部分にある。
「大学できちっと勉強してもらう」方策をどこの大学でも考えている。
(1) 単位認定を厳しくする
(2) GPAを導入する。
(3) カリキュラムを厳しくする。
などのやり方がある。
(1) の場合,絶対評価で教員が設定し公開している基準に基づき,厳しく評価し,
学業不振である学生はどんどん落第させる,というやり方が取られることが
おおい。
一見もっともで,簡単にできるような気がするこの方法は,現実には実行しがた
い。なぜか? 教員がみんなでそろって成績の評価基準を厳しく守ったら,
おそらく非常に多くの学生が留年してしまう。「そんなに大学の勉強は大変なの
か?」と問われれば,答えはYESだ。今のように,多くの大学生が大学で
学ぶことよりも,アルバイトやサークル活動,個人の自由時間に重きをおいて
いるようでは,大学での本腰をいれた勉強にはついてこれないだろう。
欧米の一流大学の図書館は,ほとんど例外なく朝から夜まで勉強する学生で溢れ
ている。時間を惜しんで勉強しないとついていけないような厳しさがあるのだ。
さらに,
卒業間近になって,学生や学生の両親からの要望が舞い込むことも多々ある。
「なんとか〜の単位を出してください」というお願いだ。その場合,「もう
〜に就職が内定しているから」という理由がつけられたりする。
この問題は実は根が深いので,また後で触れることにしよう。
(2) のGPA (= Grade Point Average)が,アメリカ等の大学で導入されている成績評 価システムだということは,P-1 でも話題にした。「首大」の 基礎教育センターが導入を検討することには なっているが,その後,まったく話が進展している様子はない。それは, 単位バンクと根本的に相容れない制度だからだな。 単位バンクは,学内の授業だけでなく,他大学やボランティア活動などをどんど ん単位として認めるから,最終的に単位を取るのは簡単になる。 単位バンクで,単位取得が難しかったら,いくらいっぱい単位バンクに 科目登録してあっても無意味だからな。GPAでは,単位の取得そのものではなく, その科目の成績と単位数が両方評価の指標となる。従って,進級時や卒業時の 基準として,GPAを使える。従来の「単位さえ取ればよい」という考え方から 「成績も良くなければならない」という考え方に移行できる点では優れているが, GPAを導入したからといって,「卒業するまでに多くの勉強をこなさなければ ならない」ということに直接結びつくわけでもない。なぜなら,どうしても 成績評価は個個人の教員によって違ってくるので,成績評価が甘い教員の 所に学生が集まるという傾向を排除できない。
最後に、(3)のカリキュラム改善だが,特定の専攻を極めるために, 基礎から積み上げて上級レベルまで勉強するコースウエアを確立するようにして, 途中での授業単位の未取得を許さないようにするというアイデアだ。 すでに多くの専門領域でさまざまな大学で行われているが,徹底して行うために は,やはり個個人の教員による学生評価ではなく,チームティーチングと 合議制による学生評価が必要になり,少人数教育が前提となる。 「首大構想」の中では,読売新聞の記事にもなったように, 「必修科目を設けない」と言っていた(が,実際に設置審に提出した 書類には,ちゃんと必修科目が入っていた)(「新大学は,コースごとに履 修科目のモデルを設定するが,学生は必ずしも従う必要はなく,各自の将来設計 に応じて科目の選択が可能になる。 」読売新聞,2003年10月25日)。 <カリキュラムをできるだけ自由にしよう>というこの考え方は, 単位バンク構想とあいまって<学生に対しての縛りを少なくする> 方向だ。従って,「首大」では,カリキュラム面で厳しい制度はない, と考えられるから,その面でも「卒業しにくい大学」ではない。
教育のレベルを上げる工夫はさまざまな大学で試行されているが, なかなか実を結ばない理由がある。それは,日本の社会全体が 高等教育に価値を置いていないと思えるからだ。 2004年3月9日の朝日新聞夕刊で,岡山 茂氏(早稲田大学・ フランス文学、アレゼール日本事務局長) が 「大学を覆うモラルハザード 公共性危うくする「経営」先行」 というタイトルで書いた文章の中に,次のような一節がある。
日本において異様なことは、大学生の8割近くを受け入れている私 立大学の公共性が危機に瀕しているにもかかわらず、国・公・私立 からなる日本の大学システムをどうするのかをめぐって、文部科学 省が具体的なプランを示さず、国民的な議論も起きていないことで ある。小泉首相による「聖域なき改革」の方針に文部科学省が従っ ているというなら、その方針を批判する大学人、野党や与党の議員 たち、そして彼らを支えるメディアの力が、いまほど試されている ときはない。
(AcNet Letter 71 【2】 2004.03.11で全文を読むことができる。)
G-9ですでに紹介したように,
(1) 高等教育公財政支出は,対GDP(国内総生産)比0.5パーセントで米国
の約半分以下(OECD諸国の中でもっとも低い)
(2) 政府の競争的研究費は約3500億円で,米国の約10分の1
(3) 学生納付金は高いが,それ以外の民間資金(団体・個人からの寄付収入や大
学自身の基金収入等)が乏しいため,民間支出も対GDP比0.6パーセント
と米国の半分以下
遠山敦子「こう変わる学校 こう変わる大学」2004年,講談社.P.237-238.
このように高等教育公財政支出がOECD諸国の中で最低であることを, 文部科学省も文部科学大臣も知っている。マスコミもおそらく知っている。 国民の大多数は,おそらく知らない。ここにまず問題がある。 さらに,この数字がマスコミを通じて外にでることもたまにはあるのだが, 国民の関心をひかない。経済界も,この事実を知っているが, 黙っている。このような状況を作り出しているのは, 日本全体が高等教育にお金をかけることに意味を見いだしていないからだ, と結論づけることができる。大学での高等教育に 資財を投じてバックアップすることが必要なことだ,という認識がないのだ。 知らないうちに,「勉強するのは高校まででいい」という意識が 日本全体に蔓延してしまっているのではないか? 「大学に行ったら, 自由にすごして,就職するまでの間のびのびと過ごせばいい」と思っている 人が多いのではないか?
就職をする時,会社側は,大学生に何を望むだろう?
大学での専門的知識を要求する場面がどれだけあるだろうか?
わしの知っている限り,<会社側が学生に大学で学んだ専門的知識を要求する
場面は少なくなっている>と思う。理系の場合,大学教育のレベルダウンだと
言う声もあるが,会社側の必要とする知識がより高度になった結果だと言う
声もある。問題なのは,「会社側が,大学教育にそれほど高度な教育を
望んでいない」という声があるところだ。 「健康であればよい」,
とか,「柔軟な発想力があればよい」とか,「前向きに何でも取り組む
姿勢が重要だ」というのを,リクルートの際の基準にしてしまうと,
大学教育に意味を置いていないのと同じになる。
これでは,大学生はますます勉強しなくなる。そして次のような<悪魔の連鎖>が
生まれる(本当はどこから始まるのか分からない,終りのない連鎖)。
・・・
→学生は勉強しなくても単位が欲しい。
→→学生は単位が欲しいから,単位を簡単に出してくれる先生の所へ行く。
→→→厳しい評価をする先生が嫌われる。
→→→→いつまでたっても,大学での教育レベルが上がらない。
→→→→→大学での教育レベルが上がらないから,会社は学生に勉強することを求めない。
→→→→→→学生は勉強しなくてもいいと自分で思う。
→→→→→→→学生の親も,自分の子供達が大学で勉強することを期待しない。
→→→→→→→→学生は,周囲から期待されていないから勉強しない。
→→→→→→→→→学生は,それでも卒業したいから単位が欲しい。
もちろん,大学生の中には,本当に専門の勉強したくて大学に入学して
くる者もいる。そのような学生にとっては,上の悪魔の連鎖はまったく
意味がない。そのような学生は,自分から進んで切磋琢磨して勉強を
する。そのような学生の学力は,どんな環境においてもそれなりに
伸びていくものだ。
「入りやすくて卒業しにくい大学」という表現の中で,「卒業しにくい大学」 の部分は,かくして実現が極めて困難なのだ。それは,大学側の 努力だけでは達成できない。日本全体で,高等教育を守り育てること の重要さを再認識することがなければ,「卒業しにくい大学」は 日本に誕生しないだろう。未来永劫に! そう,もちろん「首大」が 「卒業しにくい大学」になることもない。
最後に,岡山 茂氏の上で引用した文章の2パラグラフ前から読み直してみよう。 日本とイギリスの様子が描かれている。そうだ,イギリスは, 大学の授業料値上げに関しての法案が,議会で激しい議論の対象に なっているのだ。日本の国会を見よ! 高等教育に関する議論が,かつて 真剣に議論されたことが,どれだけあっただろうか? おそらく,「選挙の票に結びつかないことはやらない」とか, 「どうせ国民は関心がないだろう」とか, 大部分の政治家は考えているのではないか? 大学を擁護する族議員がいるわけでもないので,大学人は自分達の立場を守る ことが極めて難しい。このように考えてくると,思うことがある。 今,日本は近代化を成し遂げ, 「もう欧米から学ぶことはない,これからは,アジアと仲よくしなければ」 という考え方がよく聞かれる(「首大構想」もまさにその例だ)。 しかし,日本は高等教育を大切にすることに関しては, まったく欧米から学んでこなかったのではないか? <民主主義を守ること>や<学問の自由を尊ぶ>といった本質的な部分を 学んでこなかったツケが,今,日本の 高等教育を破壊する波となっているような気がする。
日本の大学は、民営化圧力の下で切磋琢磨しているというよりも、 目に見えない暴力のスパイラルに巻きこまれて自律性を失っている というべきだ。私立大学の必死の経営努力は、法人化による混乱が 続いている国立大学や、改革をめぐって地方自治体の首長と深刻に 対立している公立大学にも圧力として働いている。個々の大学にとっ ては真摯なものかもしれない改革への取り組みが、システム全体を 混乱させ、「生き残る」大学がはたしてよい大学なのかどうかもわ からなくさせている。
この1月にイギリスでは、上限を六十数万円にして大学が独自に年 間授業料を設定できるようにするという法案が、僅差で議会を通過 した。サッチャーの過激な改革のあとでも大学の授業料は二十数万 円に抑えられていたが、ブレア首相が今回提出した法案はその枠を 取り払うものであったため、野党ばかりか、与党の内部にも激しい 反発が起きた。このことは、ネオ・リベラリズムの先進国であるイ ギリスにおいてさえ、公共サービスとしての高等教育の存続を求め る声がいまだに強いということ、そして大学が政界を揺るがすほど の大問題になっているということを意味している。
日本において異様なことは、大学生の8割近くを受け入れている私 立大学の公共性が危機に瀕しているにもかかわらず、国・公・私立 からなる日本の大学システムをどうするのかをめぐって、文部科学 省が具体的なプランを示さず、国民的な議論も起きていないことで ある。小泉首相による「聖域なき改革」の方針に文部科学省が従っ ているというなら、その方針を批判する大学人、野党や与党の議員 たち、そして彼らを支えるメディアの力が、いまほど試されている ときはない。
(AcNet Letter 71 【2】 2004.03.11 http://letter.ac-net.org/04/03/11-71.php)
X-2 ある大学の入試の偏差値は, その大学の学生の能力を反映しているんでしょうか? 次へ
ポーカス博士入学試験問題に出題される知識と問題解決能力に限定すれば, 入学時の大学生の能力をかなりの程度反映していると言える。 偏差値そのものは,別に悪玉でもなんでもない。母集団の中の平均値から どれだけ離れているかを数値化しているだけだ(下の定義を参照)。
偏差値
学力試験などの結果が集団の平均値からどの程度へだたっているかを示す数値。 ふつう個々の数値と平均値との差を標準数値で割って10倍し、それに50を加えた 数で表す。
北原保雄編『明鏡国語辞典』大修館,2003.P.1494.
大学が偏差値によって序列化されたと言われることが多い(西澤学長予定者が 大学案内で語っていることでもある。D-10) が,それは学力試験の内容に依存する形で序列化されているにすぎない。 学力試験の内容は,年々傾向も変わってきており,10年前と現在の試験内容を同 じ尺度で見ることには無理がある。しかし,2〜3年という短期間の比較で 傾向が変わっていないという前提なら,かなり意味のある比較ができるだろう。 例えば昨年度の都立大人文学部の受験生と,「首大」都市教養学部の受験生の 偏差値比較は,ある程度意味のある比較だと考えられる(W-7で示したように,都立大人文の偏差値69から, 「首大」都市教養の偏差値60の下落は深刻だろう)。
もちろん,偏差値は絶対的な人間の知的能力を評価するものではない。 学力試験で出題されるような種類の問題に,限られた時間内でどれだけ適切に 答えられるかを調べて,平均値との差を求めているだけだから,当然, 「偏差値が高い学生は,頭がいい」という普遍的一般化はできない。 同様に, 「偏差値が低い学生は,頭が悪い」という普遍的一般化もできない。 これがまず第1の重要な点だ。
それにもかかわらず,
第2点として,入学試験の偏差値は,大学入学時の学生の知的能力を,
ある程度,数値化しているのは事実であると思う。
個人の経験に基づく一般論として聞いて欲しい(広範囲で成り立つ
普遍的な事実ではないかもしれない)が,新入生の偏差値レベルが5〜10
違うと,教室で教えてみて学生の反応の仕方が違う。
偏差値の高い新入生のクラスでは,一般的に見て知的好奇心が高い学生が多く見
られる。どういうことかというと,
授業中に何かを話題として提供した時に,より多くの反応がある。
今流に言えば,「トリビアの泉」のようなネタでも,興味をもって聞いて
質問してくるのは,偏差値の高いクラスだ。
過去に,大学の学生のレベルが国立大学でも急落したと教員が感じた
時期がある。一番大きかったのが,共通一次試験の導入後だ。
共通一次試験(=現在のセンター試験)の導入前の学生と,導入後の
学生は全然違うという評判があちこちでたった。共通一次試験は,
奇問難問を出さずにスタンダードな知識や考え方を試す,という趣旨から
考えると極めて常識的な入試改革だったのだが,現実に,これを期に
高校生の勉強の仕方が変わったのだろうと推測されている。
第3点として,入学時のこのような偏差値と学生の知的好奇心との相関関係
は,一般的にいって卒業まで続くものではない。大学での勉強に慣れてきて,
学部学科のカリキュラムをこなす内に,だんだんと学生の方も変化していくから
だ。新入生の時には,まったく目立たなかった学生も,2年3年と過ぎる内に
頭角を現し,優れた業績をあげる者もいる。逆に,新入生の時にはとびきり
目立つ存在であった優等生が,4年終了時には,まるで普通の学生になっている
こともある。
これは,裏を返せば,学部学科教育の中で生まれた成果で
あり,「首大構想」のように単位バンクを中心に既成のカリキュラムを
壊してしまうと,学生個人の自由な履修ばかりに目が行き,結果として,
大学に入ってから系統的に同僚の学生と一緒に学ぶという環境を奪って
しまう可能性が高くなり,大学に入ってから伸びる学生が減少する
ことが予想される。「首大」では,同じ学部学科でも,コース(あるいは
系)によってやっている内容が大きく異なるが,そこに単位バンクが加わり,
コースのカリキュラムを越えた自由な履修を促進させてしまうから,
教育研究の系統立てた学習が保障されないのだ。
以上,入学試験の偏差値と学生の能力に関して3つの側面を見てきたが, 入学時の学生の能力は,偏差値とかなりの程度相関していると考えられる。 もちろん,偏差値では計れない(優秀な)能力を持つ学生もいる。 そのような学生を大学に迎え入れるために,さまざまな入試の形が 現在では用意されている。それらの多様な入試がどれだけ成功しているか は,また別の問題だが,結論だけ言うなら, 日本での「多様な入試」はあまり成功しているとは言えない。 推薦入試ですら,あやうい。推薦枠を増やした学部学科の学生のレベルダウンは, 頻繁に報告されているからだ。もともと偏差値レベルの低い大学の場合 には,それほど問題にはならないようだが,逆に偏差値レベルの高い大学の 場合は,明らかに足を引っ張っていることが多いと聞く。
X-3 実学中心の教育・研究体制にしたら, 就職率が上がるんですか? 次へ
ポーカス博士そう簡単なものではない。 いわゆる実学と呼ばれるものがどういうものかというのも1つの問題だし, 就職率を上げるということと直接結びつくとは限らない。 従って,たとえ「首大構想」が実学中心であるとしても,必ずしも就職率が 上がるとは限らないということだ。
工学部のような,もともと実学指向のところでは,おそらくそんなに 事態はかわらないだろうが,例えば人文系や理学系の一部のように, 明らかに基礎学問に属する専攻では,突然実学指向にすると言っても 無理がある。すぐに産業界に結びつく教育研究にしろ,と言われても, できない学問もあるということだ。都立大人文学部の就職率が悪いと 知事をはじめ,大学管理本部はしきりに主張して人文の人員削減を 強行したが,全国の人文学部と公平に比べてみれば,それほど悪い数字ではない ことが分かるはずだ。
実学とは何か,と問われれば,社会に出てすぐに役立つような知識や
技術ということになるだろうが,果たして何が本当に社会に出てすぐに役
立つ知識・技術なのだろうか? 一番簡単に分かるのは,英語の運用能力とか,
コンピュータを利用する知識だろう。その点を,例えば慶応大学SFCは
徹底的に意識した。カリキュラムから実際の授業に至るまで,外国語は
実用的知識を中心にしたし,コンピュータの利用は徹底的にキャンパス内で
鍛えるようにした。その結果,慶応大学SFCは,
確かに受験生からも高い評価を受け,人気が高いし,
現在でも高い就職率を誇っているが,
「協調性に欠け離職率が高いといったマイナス面を挙げる産業人もいる」
そうだ(『財界』2004年6月8日号,P.73)。
そして,「首大構想」のように,実学重視といいながら,
具体的なカリキュラム面で実学重視のための工夫が見られないようでは,
慶応大学SFCの足元にも及ばないだろう。単位バンクやキャリア・カウンセ
ラー,英語の外国語学校外注は,本当の意味での大学教育の改善ではない。
実学を本当に役立つレベルまで引き上げる実質的手段が,何も計画されていない
からだ。教育する側の事情を考えて,教員と現場の状況を相談して
練り上げられたカリキュラムが欠如しているからな。大学管理本部は,
制度だけをいじって何とか改革ができると思っているようだが,
実際には大学カリキュラムの破壊でしかないことに気づいていない。
就職率を上げる問題にしても,今の都立大に就職担当の職員がたった2人しか
いないことをかつて話題にしたが,改革運動が始まる前までは3人いたのを,
大学管理本部が人減らしをしたのだ。およそ6500名いる学部生と大学院生に
対して,たった2人しか就職担当職員がいないのでは,話にならない。
私立大学の就職課の充実ぶりをよく調べてみるがよい。就職ガイダンスを
年に7〜8回開くところ(大同工業大学),入学してから4年間を通しての
就職支援体制を持つところ(金沢工業大学),ほとんどマンツーマン体制で
就職指導をするところ(豊田工業大学),
教員と就職担当職員がそろって学生の就職活動をサポートする
ところ(福山平成大学)など,本当に多くの人員と時間を使っている。
(『エコノミスト』2004年7月20日号,
<選ばれる大学,就職率ランキング>より)
東京都は,教員の数を減らし,職員の数を減らし,就職率を上げる
なんてことはできないことを認識すべきだ。学生一人一人の能力開発を
することはもちろん,その学生の特性を生かし,学生の希望を聞き,
適切なアドバイスをするのには,おおくの人員が必要だし,多くの
時間がかかるのだ。
第一に,大学で実学重視をするといって,基礎学問から 手を引き,かたよった知識しか与えないというのでは,まず大学教育ではない。 専門学校と同じだ。第二に,実学重視と言っておきながら,ちゃんとした 教育プログラムを組まないで,ただ制度をいじっても何もできないことを 認識すべきだ。きちんとした教育プログラムを作るためには,現場の 教員と時間をかけた議論が必要なのだ。第三に,就職率を上げるためには, たくさんの世話をする人間(職員と教員)が必要だし,学生との面談の 時間が必要なのだ。 ただインターンシップを導入するだけでは,就職率は上がらない。 人員削減をしても就職率が上がるなんてことは, <逆立ちして風呂の水を飲み干すことができる>と主張しているくらい, ありえないことだろう。 このままの構想では,「首大」の就職率が今の都立4大学より目に見えて よくなるということはないだろう。
X-4 大学での教育は,どうしたらレベルアップできるんでしょうか? 次へ
ポーカス博士いろいろなアプローチがあるから,一言で片付けるわけにはいかないが, 大学教育のレベルアップには,原理的な問題と制度上の問題があると思う。
原理的問題と呼んだのは,「大学という高等教育機関の特性」という名のもとに
しばしば言及されることだ。専門学校や高等学校の教育とは違い,
(1) 大学教育を支えているのは,大学教員の研究であるという点だ。
教員の研究者としての側面が,大学教育を底支えしていると言える。
もちろん中には例外的な大学教師もいるだろうが,研究を通して分かったことを
教育に還元していくというのが基本なのだ。だから,大学教育の
レベルアップを図るためには,大学での研究活動をサポートする体制
が必要だ。一言で言えば,研究と教育は大学では不可分の関係にある。
大学教員の方でも,授業を通じて学生からのフィードバックを得ることが
できる。これは,「教えるという行為」を通じで,自らより深い理解を
得ることができるという面と,学生からの素朴な質問やするどいつっこみ
を通して,特定の研究課題の側面がより明らかになるということがある。
研究を大事にしない大学は,長い目で見て,よい教育体制を
維持することはできない。
そして,(2) 広い普遍的視野から教育する,というのも
大学での高等教育の特色だ。目先の知識や技術にとらわれず,世界に通用する知
識や,時代を越えて価値を持つものをしっかりと見据えることが重視される。
これが「普遍的視野」という言葉の核心だ。今現在でその価値が分からない
ものでも,10年して100年して本当に価値のあるものが再発見されていくのが
学問の世界だ。そのような学問の性質をしっかりと理解して,それを
教育にフィードバックしていく姿勢が重要なのだ。
逆に「狭い視野」とは,すぐに役立つことだけを重視するような技術教育だ。
「教育や研究の地域還元」は,近年大学に対して声高に叫ばれていて,
それ自体を悪者だと決めつけることはできないが,「地元中心主義」と
「実利主義」だけでは,大学教育の本質からはずれてしまう。ちょっと比喩としては
はずれてしまうところもあるが,オリンピックに対しての日本のマスコミ報道を
考えて欲しい。日本人選手の活躍ばかり追いかけて,日本人選手がいくつ
メダルをとったとか,メダルを取った人のインタビューとかを繰り返し報道
しているが,日本人選手が2位や3位だったような競技では,
1位の選手の話がほとんど放映されない。広い視野でみるのなら,
その競技の全体のレベルを知るためにも,1位の選手の紹介もすべきだろう。突然,2位や3位の
日本人選手だけしか見せず,日本人選手のインタビューしか見せないという
のは,あまりにも了見が狭すぎる(大部分の日本人が,オリンピックと
いっても日本人選手の活躍にしか興味がないから,マスコミはそれに
対応しているだけだ,という主張もあるが,それはこのような狭い見方
を助長しているという側面があることを意識して改めるべきだ)。
「日本人以外の選手の活躍も見たい」というのは,広い視野につながるし,ある競技の
全体のレベルを知りたいというのは,普遍的な視野につながると考えられなくも
ない。
制度面の改革には,ファカルティ・ディベロプメント(FD: Faculty Development)と呼ばれる
「教員が授業内容・方法を改善し,向上させるための組織的な取組み」が
行われている。例えば,授業の評価システムなどもFD
の中に位置づけられることもあり,新たな客観的システムが研究されていたりする。
わしは,かつて大学セミナー・ハウスで行われたFDの研究会に出席したことがある。
さまざまな大学教育改善のための提言とともに,授業の新たなる展開の可能性を模索する
発表を実体験することができた。大学教育の効果をあげるためには,
まだまだ改善の余地があると感じた。
一方で,「FDに熱心であるか否か」というのが,大学評価のチェック項目に
入っているが,これには疑問もある。FDを熱心に研究している学部が,
即ち教育上の優れた成果をあげているかと言われると,必ずしもそうではないか
らだ。 「FD的視点を導入する」という言葉の裏にあるのは,
(1) 大学教育を教員個人にまかせるのを止め,(2) 決まった教育プログラム
を導入して,教員はそれに従って授業をするという側面を指すことが多い。
特定の教員の優れた教育に注目するというよりも,システムを
作り上げ,それにそって教育を展開するという意味では,個性的な教授法を
排除してしまう危険性もある(もちろん,FDが個性的教育を
否定するわけではない。狭義のFDとは,「教授能力の開発」という意味で
あり,Faculty とは「能力」を意味するからだ)。
広義のFDは「より良いカリキュラムを開発することや、
より良い教育を可能とするための管理・運営の方法を開発することを」
を含むのだが,その時に主張される「特定の教育システムの導入」は,
ある意味で教育の均等化を意味する。
このようなシステムの導入による利点とは,
教えるのがうまくない大学教員の授業を運わるく受けることになっても,
一定レベルの教育は受けられるという点だ。
しかし,すべての授業をシステム化すれば,
大学の教育が効率化されるというものでもない。
おそらく,そのようなシステム化に馴染む教科と,馴染まない
教科があるはずだ。その部分の線引きをきちんとしないといけないと思う。
つまり,教員の個性的な授業をすべて認めないというような,一方的な
システムを作るべきではない,ということだ。特定の分野の基礎知識を
学生にたたき込まなければならない専門基礎科目では,おそらく,
徹底したプログラム化,システム化がなされてしかるべきだろう。
しかし,演習(ゼミ)や実習,さらには,新たな学生参加授業などでは,
個性的な新しい取り組みがもっと多く提案されて実験的に導入されて
いい。これは,さっき言った狭義の(本来の意味での)FDなのだが,
このような個性的授業導入という話になると,大学もなかなか
もろ手を上げて支援してくれるわけではない。
なぜかというと,このような個性的授業の話は,組織に対しては
例外的な事項となり,トップダウンの大学教育改革とは結びつかないからだ。
「首大構想」の中で,教育改革の具体的内容に踏み込んだ部分が
ないのに気がついたかな? 英語教育の外注とか,TOEFL500点の話
は出てきても,どのような教育プログラムを導入するかという説明は
ない。その代りに登場するのは,単位バンク
と結びついたキャリアカウンセラーだ。キャリアカウンセラーは,学部学科で
構想された教育プログラムを破壊する。つまり,教育現場で必要であるとの
認識で作られたカリキュラム(学部学科の教育プログラム)を無視して,キャリアカウンセラーが
学生の希望を聞いてカリキュラム設計をしてしまうからだ。キャリアカウンセラー
の個人の知識や能力に依存した形で,教育内容が決定してしまう。
キャリアカウンセラーの導入は,ファカルティ・ディベロプメントとも逆行する
トップダウンの構造を許してしまうとんでもない制度だ。
大学管理本部が手を加えるのは,基本的に教育に
かかる資金と大学の設備環境にかかわる部分だけでいいのだ。
トップダウンの手法を使った教員組織の組み替えや,学部学科の内容の改変
による「大学改革(改悪)」は,
大学の教育レベルを上げるのに貢献しない。ましてや,
学部学科の教育システムを壊すようなキャリアカウンセラーを
導入してはいけない。これが分からない大学管理本部は何なのか,
と問われれば,(大学)教育問題を理解していない非専門家集団
であるということになる。残念ながら,8・1事件以後,
教育関係の専門家集団は管理本部にほとんどいないのだ。
教育庁から来た役人は,ほとんどいなくなってしまった。
そして,さらに人事異動が強行され,またまた教育現場の状況を
しらない役人が管理本部を動かしているように見える。
「教育現場の声を聞かない」という方針が貫かれる限りにおいて,
「首大」の教育レベルは決して上がらないだろう。
X-5 大学教員は,大学改革に熱心ではないという批判 を聞くことがあるんですが,実情はどうなんでしょうか?
ポーカス博士結論から言えば,いわゆる大学改革に熱心な教員も大勢いるが, 無関心な人間も,保守的な人間もいる。日本のどこの地域社会,会社組織,公的 機関を取っても似たり寄ったりの事情だと思う。 日本全国の大学の実情を知っている訳ではないから簡単に結論を出すことの できる問題ではないが,これまでわしが個人的に体験してきたことから 独断的に答えれば,その質問には大きな偏見が隠されている。 つまり,大学の教員・研究者の社会は特殊社会で,閉鎖的で, 保守的だという偏見だ。
その偏見を,中井浩一氏は「徹底検証:大学法人化」の中で以下のようにまとめ ている。ここの文脈では,「日本の大学には競争がない」という批判を検討し, 理系でも文系でも「激烈な競争がある」ことをインタビューを通じて明らかにし, 最後に次のように締めくくっている。
しかし、それにしても、なぜ大学の実態が、こうも知られていないのだろうか。
世間には依然として大学への幻想と、その反面の反発やねたみがあるからだろう。 世間と大学をつなぐ媒介が機能していないことも大きい。叩きまくるだけのいい かげんな批判か、または提灯記事しかない。
また、東大をトップとする偏差値の序列意識が強いために、それへの反発や反感 も強烈で、事実を冷静に考えていくことが難しかった側面もある。東大の教員も、 批判が怖くて思いきったことを言えない。
マスコミも、読者の側も、そろそろそうした意識から脱却していく必要がある。 できるだけ公正で客観的な評価、細かな違いを認めながらも全体的な記述をする ことを求めたい。何でもかんでも「一括りにする」表現はあらためていくべきだ ろう。
中井浩一「徹底検証:大学法人化」(中公新書ラクレ 147, 2004年9月10 日 発行) P.281-282.
そう,このような偏見で日本社会は日本の大学を見ているのではないか。 日本の大学という社会は,様々な問題点を抱えているが,それは, 日本の社会の抱える問題の縮図でしかない。その中には,改革派もいれば 保守派もいる。無関心な自己チューもいる。
話を核心に戻そう。日本の大学という組織を一般化して述べるのは,
かなり難しいが,改善しなければならない点は多々ある。
ざっと考えただけでも,(1) 組織編成の改革,(2) 設備の改善,
(3) 予算執行方式の改善,(4) 人事管理の改革などがある。この中には,
研究に関わるものも教育に関わるものもある。
自分で関わった教育関係の例を1つ挙げよう。
都立大学のLL施設が老朽化していることは,以前に紹介したことがある。
都立大学が南大沢に新キャンパスを移した時は,まだバブル期
だった。本来,外国語教育で使われるLL施設は,リース方式が普通だった
にもかかわらず,なぜか一括購入してしまった。当時最先端だった機器
は,10年以上そのまま放置されている(もちろん,修理や維持管理は
されているが)。フロッピーディスクを挿入して立ち上げるという
このLL設備は,今でもそのままになっている。この間,さまざまな
修理を重ね,すでに限界であると再三指摘し,大学の教育設備に
関する概算要求に何年も続けて予算要求をしているが,結局,
東京都からは認められずに放置されてきた。近年は,AV機器の発達が
めざましいので,CD-ROM, DVD等を語学授業に生かしたいという改善要求や,
CALL(コンピュータ支援語学教育)の導入,衛星放送設備の拡充の
要求も現場の教員から出ているが,検討して予算要求しても,
何年たっても通らないのだ。教育環境改善として,これだけ長い間
要求しても,あいかわらず変化なし,というのは,どこに原因があるのだろうか?
一つは予算全体の大きさ,もう一つは予算要求をした時に,
誰がどのような基準で順位づけをして決定するのか,
という評価プロセスの不透明さだろう。
これは,現場の教員が教育設備の改善を求めているが実現しない,
という問題だが,教育設備は教育内容の改革と一体になっている
ことに注目しなければならない。注1
さっき上で挙げた中井浩一氏の本には, 工業技術院の独立行政法人化をした時の話が紹介されている。 何らかの改革をする時の基本姿勢として,学ぶことが多い事例だと思うので,参 考に引用しておこう。
工業技術院の独法化にともなう具体的な改革案の作成は、現場スタッフからなる ワーキング・グループに任された。基本理念ワーキング・グループを中心に、 他に分野別に五つのグループ。各ワーキング・グループは20人から30人 近くのメンバーが選ばれた。それぞれの研究所から1人。大きなところは2人。 東京本部のスタッフはそれを脇で支える。ワーキングの舵取りは東京の「顧問団」 が行った。
ワーキング・グループでは、独法化を好機ととらえ、よりよい研究環境づくりの ために、従来の方式があらゆる面で見直された。これまでの問題点の洗い出しか ら、その解決策の検討。問題解決のための、あらたな組織設計、評価の仕組みな ど。
そこでの原則は、研究現場にできるだけ権限と責任を委譲して、 フラットな組織にすること、 ワーキング・グループでの2年以上の議論の積み上げをへて、 01年4月にスタートしたのが産総研である。
ワーキング・グループのメンバーで特徴的なことは、 40代前半の若手が中心に集められたことだ。 若手選出に各研究所トップや50代の部長たちからの反発は あったが、「やめていく人間が、後のことを決められない。実際にその組織で生 きていく人間が考えて決めるべきだ」(澤)という正論には誰も反対はできない。
中井浩一「徹底検証:大学法人化」(中公新書ラクレ 147, 2004年9月10 日 発行) P.290-292. 【アンダーラインはPocusによる。】
ここに,経済産業相の現職官僚、澤 昭宏氏(経済産業相資源エネルギー庁資源・ 燃料部政策課長)の目から見た「成功例」が中井浩一氏によって語られている( 後述するが,実態は残念ながら違っていたようだ)。それは, アンダーラインの所にあるように「現場に権限と責任を委譲し,フラットな 組織を作る」ことを目指し,「2年以上の歳月をかけ」て,「40代前半の若手が中心」に なって行った改革だ。どうだ,「首大構想」とは大違いだろう。 「首大構想」では,現場から一切の権限を奪うことを目指して作られ,突然, 話し合いの場を奪って,短期間で老人たち(失礼!)が作り上げたものだ。 これでは,出来上がったシステムが,現場の研究者のためになっている はずがない。もうじき退職するような人間が,未来のシステムの設計をする ようではだめだ。一般論として,言えば,50歳以上の人達は現状のシステムを 保持する方向,つまり保守的になっていることが多いだろう。つまり, 改革には,そう熱心にはなれないのが普通だ。 だからこそ,今後,何十年も活躍する若手が中心に,現場からの声を 生かして改革案の中心部を作り上げるという考え方には,極めて説得力がある。 大学改革も,かくありたいものだ。
さて,澤 昭宏氏の語る国立研究所の独立行政法人化の内容は,残念ながら
経済産業相の官僚の目から見た話で,実態とはかけ離れていたようだ。
読者から直接指摘を受けた(10/3)のだが,
(1) 「ワーキング・グループのメンバーで特徴的なことは、 40代前半の若手が中
心に集められた」とありるが,実際の集めかたは「一本釣り」で,誰が選ば
れたか他の人は知らなかった。
(2) 基礎研究の分野は冷遇された。
というのだ。(1) を見ると,「首大構想」を実現するために東京都大学管理本部
が教員と個別に接触して,
自分達にとって都合のよい仕事をしてくれる特定の教員を「一本釣り」
してきたのと同じ密室性を感じる。
これは,横浜市立大学で起きていることとも共通している。
(2) に関しては,当時,通産省工業技術院地質調査所地殻熱部にいた
藤本光一郎氏が,
このような報告(http://ac-net.org/dgh/99b04-fujimoto.html)
をしている所から明らかになっている。これも,「首大構想」で起っている
ことや,横浜市立大学で起きていることと同じだ。
その結果,
経済技術総合研究所という独立行政法人から,基礎研究の分野では,
かなりの数の有力な研究者が国立大学等に脱出したと言われている。
従って,経済産業相の官僚から見た構図と異なり,
産業技術総合研究所は基盤的な研究力がかなり劣化したようだ。
経済産業省は,やはり実利と結び付く技術だけを大切にし,本来の
科学(あるいは,学問)の役割を見失っていると言わざるを得ない。
先日の朝日新聞に,ノーベル物理学賞をとった小柴昌俊氏が,<技術と科学
を同一視してはならない>という趣旨の発言をしていたが,このような
視点が理解できない人達が「科学立国」という掛け声の元に,
基礎研究を淘汰させようとしているのは極めて危険な状況だと言わねばならない。
中井浩一氏による「徹底検証:大学法人化」の第8章「『経産省vs文科省』という
底流」は,経済産業相の現職官僚、澤 昭宏氏の口から語られたことに
大部分基づいていて,その裏を取る意味で関係者のインタビューが並んでいるか
ら,注意しなければならない。つまり,若手研究者であっても,茅の外に置かれ
ていた研究者,基礎科学に従事していた研究者,産総研に見切りをつけて
出ていった人達には何の話も訊いていないのだ。